September 24, 2012, 9:00 am
一句は、山頂の視界の広がった解放感から思わず「頂上や」ということばが出たのであろう。その高らかな謳い方が「殊に」という措辞によって風の野菊へ一気に収斂してゆく。石鼎俳句はこの句からはじまると言っても過言ではない。実際、この句を含む吉野からの初投句の九句は、「ホトトギス」大正元年十二月号の次巻頭としての登場だった。
それだけでも読者の瞠目することだったが、さらに翌月の「ホトトギス」には、「石鼎君の句に就いて所感を陳べて見ようと思ひます」ということばに始まって、長文の虚子の鑑賞文が掲載された。これが、「頂上や」の句を一気に広めたのである。この句の第一の斬新さは初語の打ち出しかたにある。本来「や」とは強い詠嘆を込めるために使われてきた。そのことばが「頂上や」という何気ないことばだったことに虚子は驚いたのである。
山本健吉は「これほど野菊の本情を捕えた句は、他に知らない。季語でも地名でも主観語でもないただの言葉を、「頂上や」と無雑作に置き、「殊に」とさりげなくそのものの存在を取り出し、「吹かれ居り」と軽く結んださまが、野菊そのものの姿を彷彿とさせるのだ。この軽さ、さりげなさは、後のちまで石鼎の句の特徴の一つと思われる(「俳句」昭和61年3月号)」。
また、それを読んだ清水哲男氏は「言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。(増殖する俳句歳時記)」と述べている。石鼎の弟子海上雅臣はこの「頂上や」を芭蕉の「古池や」に替わる写生だと小島信夫著『原石鼎』の中で語っている。(岩淵喜代子)
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September 24, 2012, 6:06 pm
野菊で思いだすのが明治39年(1906年)1月、雑誌「ホトトギス」に発表された伊藤左千夫の『野菊の墓』である。15歳の少年が2歳年上の従姉との淡い恋物語で、夏目漱石にも評価された小説。当時ツルゲーネフの『初恋』が多くの若者に読まれたように、『野菊の墓』も好まれて読まれただろう。
石鼎の山陰新聞に入選した句「七草に入りたきさまの野菊かな」は、『野菊の墓』が発表される3年ほど前の作品だが、吉野から初めて投句した「頂上や」の野菊は小説と無縁ではないような気がする。それは石鼎の少年時代までの生活を書き記した『石鼎窟夜話』から感じられるのだ。一篇の中で幾度も名前の出て来る瑠璃女に触れた部分を辿ると、初恋物語に繋がり野菊に繋がるのだ。
石鼎が瑠璃女の情報を得たのは、台所から聞こえた母と近所の主婦の話である。丹麻屋に貰われてきた一学年上の少女瑠璃女の噂を聞きながら学校で出会った転校生を思い浮かべていた。貰い子という少し悲劇的なこともそこで深く印象に留めたのだろう。
石鼎九歳の明治27年は赤痢が流行して近所の身知った人たちがいつの間にか亡くなり、翌年には日清戦争が始まった。そのため、一篇には兵士を見送る場面や、その演習の場を覗いた話、そうして戦死した兵隊の葬に参列した話などが多い。その場面の多くに、野菊に目を留め、瑠璃女を想う少年石鼎がいた。
尋常小学校四年になると一年上級の瑠璃女は、高等小学校へ進級して、同じ学び舎から去ったこともあって、時折行きずりに出会うだけになった。ことに進学した年の夏休みに瑠璃女は実家で過していたことで、石鼎はその年の夏休みがいつになく長く感じられた、と書いている。
上下巻の瑠璃女の名前が出て来る章を拾うと、「瑠璃女」「ほのあけ」「媾和」「野菊」「夏っけ」「実盛さんの竹法螺」「或る生い立ち」「芽生え」「活動写真」「?管式蓄音機」「きざし」「靴」「あるもの」「美保関」「恵比須様」、と15章に及ぶ。しかしこの章のうち、実際の瑠璃女が登場するのは「或る生い立ち」・「きざし」・「あるもの」の三章しかない。とは言え、思い出を残すような場面ではないのだ。何時までも家に帰らない石鼎を見咎めた瑠璃女が「早く家にかえりなさい」と上級生らしい注意をしたというような類の場面ばかりでなのである。
されど亦、一里を遠み隔つさえ、堰き切る潮のとどめもあえず、新たに心の一隅より、面影や、ときめき来る桃花の臉、彼のいたいけの少女瑠璃女が住む村を目ざして稈袴散る野道をすたすたと、或は咲き残る一輪の野菊をその絮の中にむしり得て、ぱっと蒼穹へ打ち散らせーー。
と、想念の中の瑠璃女ばかりが描かれている。最初に『石鼎窟夜話』を自伝と言ったが、実際にこの少女は居たのだろうか。原コウ子著『石鼎とともに』には「石鼎の恋物語」という項目がある。そこに初恋の少女藤間梅さんのことが語られている。梅さんは同学年で同じクラス、そうして高等小学校へいく頃から恋を意識するようになり、結婚の約束もしたことがあった、と。
この少女梅さんの高等小学校を卒業して小学校の先生になるあたりが瑠璃女と重なり、年上の少女であること、貰い子という境遇などが小説『野菊の墓』と重なるのである。『石鼎窟夜話』は石鼎38歳、昭和8年からかきはじめた幼児時代からの思い出。芭蕉の「奥の細道」のような構成、創作もあっただろう。
しかし、ふたたび表題にした「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」にもどると、この野菊の在り様がいっそう可憐な姿になる。(岩淵喜代子)
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September 26, 2012, 8:02 am
この年、石鼎は吉野山中にいる。次兄は山の不便さに耐えきれず下山したため、村人の希望で、次の医師が来るまで医療に従事している。そして九月に医学を再開するため吉野を去るが、父から医学か俳句かと迫られ、放浪を再びはじめるのである。そう考えると、不安な心境が、一句の下地から透けて見えるようだ。
だが個人的な事柄から距離を置き、一句を遠望してみると、神話の一場面のようにも思える。山奥にいると神話が身近に思えてくることがある。実際に、石鼎の住まいの近くの、<頂上や殊に野菊の吹かれ居り>の作句現場といわれている山上には、鳥見霊畤という『日本書紀』に出てくる場所があるのだが。
たとえば谷間を蛇行しながら流れる丹生川は、その名のようにかつて丹(朱砂)を産出し、それは薬や塗料、顔料として使われた。鍍金としても欠かせないものだったから、それは都にも運ばれていった。
あるいは近くに夢の淵と呼ばれる、幻想的な水の淀む場所があり、そこに佇むと、どこからか古人が現れてくるような気持ちにもなるのである。
ここには神が宿る大岩があり、狼が今なお潜んでいるような深山が聳え、八咫烏が語り継がれる。神も人間も獣も入り交り、時に混沌とし時に同化をして呼吸する。
風が声のように聞こえる。ごうごうと吹く風音が、おまえはだれだ、といっている。太く低い声。なにしにきたの、という細くやさしい声も聞こえる。ただ道を歩いているのです、通してくださいね、と私はその声に向かってつぶやく。
ところで、蔓と露は読みが一字違いである。つる、つゆ。私はこの句を何度も読んでいるうちに、時々、蔓と露の区別がつかなくなった。頭の構造が貧弱なせいなのだが、蔓は露の裏側、あるいは表、といえるのではないかと思った。また、露は蔓の化身とも。
石鼎は蔓を踏んだ時、そんな風にも思ったかもしれない。 (有住洋子)
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September 30, 2012, 8:24 am
今宵は中秋の名月であるが、恨めしくも本州は台風17号の直撃を受けている。
さっき最大瞬間風速65メートルと聞きとめたのはどこの地であったか、ここ関東圏にあっても夕刻からの暴風雨はすさまじい。
昭和9年というと、すぐに室戸台風が思われる。
私の生まれる前であるが、大阪で教師をしていた母から、児童を必死に守った体験談を何度聞いたか知れないからである。
石鼎は、この年、麻布本村町に住んでいたから、室戸台風の余波であったろうか。
台風の程度がどうであれ、台風が来ると言う予報があった、その日にやってきた少女に石鼎は釘付けになっている。
何の用で、どこから来たのか、一人きりで来たのか、なにもわからないが、ともかく石鼎は少女をいじらしく思い、あたたかく迎え入れたことはいうまでもない。
少女は女学生であろうか。その表情には愛らしさと賢さをたっぷり湛えているように思われる。
台風という大荒れの天候との対比が、少女の印象を一段と明瞭に見せるのである。
こういう句一つをとってみても、石鼎は自分が見たこと、感じたこと、体験したこと以外は断じて詠わないという、純粋俳人としての覚悟が伺われるものである。
まさしく血の通った俳句である。
「原石鼎全句集」の年譜によると、昭和9年は空白であるが、前年の昭和8年には、
1月、勅題「朝の海」に因む筝曲のための作詞依頼を宮城道雄から受け、作詞する。これがラジオで演奏される、とある。
朝(あした)の海
あれすさぶ日のありとも
波治(おさ)まれる朝の海に如(し)くはなし
春にあれ 夏にしあれ そは永遠(とことは)に
秋はさらなり 冬はさらでも
日の心 月のこころと ときはかきはに
八十島(やそしま)かけて 陸(くが)をまもれる
このような台風の夜に、この詩を読むと、まこと「波治まれる朝の海に如くはなし」という言の葉が身に染みいるように美しく壮大に感じられる。
石鼎はまこと詩人であった。 (草深昌子=晨)
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October 18, 2012, 8:02 am
上五「柿の萼」は、ふらんす堂「原石鼎句集」による。新学社版は「柿の蔕」とある。
「柿の萼」が、猿の白い歯からこぼれました、と読み解けばいいのだろう。上五「柿の萼」が主語になっているのである。柿を齧っている猿が「柿の萼」をこぼしました、ではなく、「柿の萼」がこぼれた、との謂いが眼目、静物であるはずの「柿の萼」がまるで動き出すかのような錯覚を受けるのである。中七「猿の白歯を」の、助詞の使い方に妙味があろう。「猿の白歯にこぼれけり」、あるいは「猿の白歯がこぼしけり」と置き換えてみるといいだろう。「猿の白歯を」であるからこそ、「柿の萼」に視線を集中させることができるのである。
上五の名詞止めの句は、例えば、
二階人何かすてたる夜長かな (大正4)
破れ案山子稲にうつむき倒れけり(大正4)
秋の波一つの岩を巻きやまず (大正7)
秋の風芭蕉にふれて遅速あり (大正7)
夜光虫櫂見ゆるまで燃えにけり (大正11)
峡の藤川上の水ひたし居り (大正12)
月の枝光るところを霜としぬ (大正12)
等々が散見されるが、柿の萼猿の白歯をこぼれけり の一句の面白さが一等上であろう。
二階人が、破れ案山子が、秋の波が、秋の風が、夜光虫が、と置いて、中七以下はいわば想像に難くない景が手堅く一句に成っているのであるが、掲句の場合には、「柿の萼」に、野生の猿のはしこさ、猿の動態の瞬時を捉えて言い切った。一句が、複雑系の成り立ちとなっているのである。 (清水和代=春塘)
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October 20, 2012, 12:35 pm
「鹿火屋」創刊直後に連載されていた石鼎のことばを拾うと「人間は神や仏ではないので、先の予測もつかないし、その真実を正確には掴まえられない。そのためにあくまで自然に縋らなくてはいけない」と書いている。このあたりからは自然信仰という括りが当てはまるようだ。その後、具体的な石鼎の神を知る記事が「鹿火屋」昭和六年十月号にあった。次の句はその雑誌の中にある。
金(あき)の日の吾(あ)を立たしゝは鳥(と)見(み)の神 昭和六年
「鳥(と)見(み)」とは、大正元年に吉野入りして最初に詠んだ(頂上や殊に野菊の吹かれ居り)を得た鳥見山のことである。当時はその場所が霊畤であることは検証されていなかったが、現在は「鳥見霊畤」という碑が据えられている。「霊畤」は新天皇が即位後最初に行う新嘗祭の場である。山頂は古代より神と交わることのできる所となっていたのである。(金の日)の句は、石鼎がこの事実を知ったことに触発されて一気に詠んだ四十七句中のひとつである。神の国出雲から吉野の山奥の鳥見霊畤の場に自ずと導かれた喜びが作品を詠ませている。当然、詠む時には神武天皇が熊野から吉野山中に入るときに道案内をしてくれた「やたがらす」の神話を思い浮かべていただろう。それだけではなく、この「鹿火屋」十月号からは妙に石鼎の興奮が感じられるのである。
本題に入る前に、昭和六年から少し遡った年譜を見渡しておくことにする。大正十年に「鹿火屋」創刊を果たした石鼎は、大正十二年の関東大震災に見舞われて以後、精神も健康も不安定であった。
昭和二年(四十二歳)前年から痔の手術のため入院していた慶応病院を退院して湯河原で療養。
昭和四年 ふと思いついて郷里に母、兄を見舞う。
昭和五年 銀座で第三回俳画展開催。五月から六月にかけて関西旅行(京・阪・和歌山)などを経て郷里出雲に立寄る。
昭和六年 歩行困難起こる。七月より八月にかけて郷里に母を見舞う。
この年譜で見る限り毎年のように出雲まで帰郷出来る体力があったようだ。十月号には出雲での「石鼎先生歓迎」俳句会の様子があり、炎暑の中七十余名が集まったのである。その隣には「ともし会」九月例会の報告もある。これは本村町の石鼎居で行っている会である。病歴ばかり数えてしまいそうな石鼎の生涯だが、主宰として活躍していることの分かる「鹿火屋」である。
同じ号の「初秋」と題した水谷六子のエッセイ(昭和六年九月記)には、――石鼎先生は御帰郷で御留守であった。獨りでの御旅行はあの御病気以来實に珍しいことで、私などは驚いた程だった。――とある。あの病気以来とは、関東大震災のショックから立ち直れなかった時期を指す。このときは高浜虚子が水原秋櫻子、高野素十を差し向けて真鍋博士に診察の仲介をとっている。水谷六子は本村町の石鼎居に久しぶりの訪問だったのだろうか。昭和八年から市川かづをと『石鼎窟夜話』の聞き書きの役を担い、その後編集委員にも加わっている人物である。いずれにしても昭和六年十月号の発刊されるころの石鼎の健康状態は良好とみていいのである。
「鹿火屋」巻頭ページ近詠の見開きページにはいつものように十六句が掲載されていた。
生れ児をもろ手にうけて天瓜粉
その中の「男子誕生の句を乞はれて」という前書きのあるものだが、きわめて穏やかな挨拶句である。ここには石鼎居を弟子が訪問している和やか風景がある。
先に妙な興奮を感じると言ったのは、そうした記事の巻末に置かれた「深吉野抄 上下」である。これは九月に吉野から鮎が届けられたことから始まる。もちろん鮎は、これまでにも届けられたことはあったに違いない。しかし、その年は鮎の他に森口奈良吉著『鳥(と)見霊畤考(みのれいじこう)・吉野離宮考』の一書が届けられたのだ。
森口奈良吉(1875〜1968)は奈良女高師(現奈良女子大)教諭などを歴任した後・春日大社などで宮司をつとめ、東吉野の蟻通神社を「延喜式」の大社丹生(にう)川上神社に比定するため奔走した人物。その森口奈良吉の著書「鳥見霊畤考」には、石鼎が(頂上や殊に野菊の吹かれ居り)の句を得た場所が神武天皇の斎場であったことが検証されていた。これは記紀を媒介して深吉野と出雲が繋がることを石鼎に自覚させたのである。昭和十二年刊行の句集『花影』の年譜の大正元年には、昭和に入ってから知った頂上を詠んだ場所についての考証を――余にとつて誠に奇縁と謂つべし。――と書き込んでいる。石鼎のこの感応を仮に「郷土信仰」と名付けておく。
年譜の同じ年度には吉野に入る経緯も書き込んである。出雲へ帰る直前に、東京で見た映画に感化されたことについては、――東京を去る動機の一つは四谷第二?寶館の切符を得たるより入場、そこに現れたる映画にショックを受けたること、一つには虚子先生のことばを真正面より受け、総てを信じたる為也――とある。映画の内容は老彫刻家に勘当された弟子が、山中で日々斎戒沐浴して製作を続けていた。弟子に勘当を言い渡した老彫刻家ではあるが、ひそかにその様子を見に来て弟子の作品の崇高さに感激した、というもの。
虚子に故郷へ帰れと言われた経緯を、石鼎は彫刻家に勘当された弟子に置き替えていた。「鹿火屋」の継承者である原裕は、それを石鼎の幻想癖(「鹿火屋」昭和四十五年七月号)ということばにしている。私はそれを「憧憬」ということばに置き換えたい。
その吉野で得た句(頂上や)は投句の第一回として「ホトトギス」に送ったものである。現在でも石鼎を語るとき、虚子の賛辞を得て全国に名を馳せたこの句を思い浮かべる人は多い。「ホトトギス」大正元年十二月号に発表した「頂上や」を含む六句に対して、虚子は翌月の号で――前号の雑詠に収録した石鼎君の句に就いて所感を陳べて見ようと思ひます。――に始まって四ページにわたる鑑賞をしている。初心者にとって、その異例の賛辞は忘れられない思い出として刻まれていのだろう。
吉野の鮎と共にもたらされた『鳥見霊畤考・吉野離宮考』は、石鼎の憧憬癖を募らせることになった。同じ「鹿火屋」十月号には、初期の深吉野で得た作品の一句ごとに、その句を得た場所を書き込み、それを「深吉野抄 上」として発表した。その序には、旅から帰ってきたら大きな鮎が届けられていて懐かしく美味しかったが、その折りに携えられた一書『鳥(と)見霊畤考(みのれいじこう)・吉野離宮考』は鮎とともに嬉しいもの、そして深吉野での第一作目(頂上や殊に野菊の吹かれ居り)を得た場所が鳥見の霊畤址であったことが明らかになり、再びその地にあるような心地がしたと書いている。
(頂上や)を得た場所が鳥見霊畤であったことを喜ぶのは、出雲国風土記の地で育った石鼎の郷土信仰がさせるように思える。石鼎は、深吉野の作品の一句ごとに、その得た場所を書き込んだが、それだけでは興奮が鎮まらなかったようだ。「深吉野抄 下」として以下の古謡のような調べの四十七句を発表している。冒頭に提示した(金の日の吾を立たしゝは鳥見の神)はその中の一句である。
『深吉野抄 下』
以上の句稿によって知らるるごとく、その當時より今日迄かれこれ二十年を過ぎぬ。今、鳥見靈畤考、吉野離宮考を讀み、また古き國歌(くにうた)をしらぶるにつけ、その浅からぬ因縁なりしことに気づき且つ驚き、且つなつかしみぞ湧く、茲のおぼろげながら想ひ出づるままを順序もさだめず書き誌す。
昭和六年九月深吉野虎髯氏より尺ばかりなる鮎贈り来る。吉野川の鮎は腹鰭大きく、その数他のものより多く、紅ゐを呈す。土地の人等は國栖の翁の離宮へ献ぜしといふ「はらか」はこれなり。
こや腹(はら)赤(あか)淵(わだ)のそこひに獲もすらし
みふね谿(だに)白浪たちて秋ぞ來つれ
弓弦葉の御井(みい)はのしらず秋に来て
秋は出で射部(いめ)やはあると御山邊(みやまべ)に
よしつくしみよしの人に秋ぞ霽れめ
踏みしだき猪臥(いぶし)の露に今日も濡れ
櫻植ゑて櫻の峠(たむけ)今もなほ 以下略
これらは初出から以上のような表記で、古歌の調べで吉野を詠んだ四十七句と受け止められる。実際、石鼎はこれらの句を発表するに当たって、「深吉野抄 上」の末尾に――左に舊句稿に所在地を記し、手前の便利とし、更にあこがれの句(試作)をも併記することとした――と説明している。
四十七句の古謡のような句を、周囲は異様な句といい、難解な句と戸惑っていたが、それから六十年後もまだ理解出来ていなかった。
この事項を紹介するのに、何故か小島信夫はその著書(『原石鼎―二百二十年めの風雅』)で、四七句の所々を「丸邇(わにさ)阪の土 千尋(ちひろ)の春の谷杉へ あたらしゝ神籬(ひめろぎ)そこに託る秋を 廣野(ひろぬ)姫(ひめ)御幸(みゆき)のあとの美(み)草(くさ)守(もり)常滑(とこなめ)のしづく床(とこ)磐(は)の彩(あや)も金 金の日の吾を立たしゝは鳥見の神」と作為的に拾って「文章」という呼び方をしている。神林雅臣氏は「秀(ほつ)真(ま)」にも詳しい人にこの古謡についての意見を聞いてくると右往左往していたが、最後は「『日本書紀』に出てくるようなこと」という一言であっさりやり過している。
「深吉野抄下」にたいする結論が出たことで、小島信夫は前述の「深吉野抄下」から所々を抜き出して文章として紹介したのだと推察する。石鼎が日本書紀の持統天皇すなわち廣野姫が行幸する事項を思い描きながら詠んだ場面を強調したのである。「あこがれの句(試作)」として詠んでいる「深吉野抄下」の四十七句は、古語を用いて吉野を詠んでいるものと判断できる。
この稿の初めに「仮に郷土信仰」と名付けた箇所へ戻ることにする。
「鹿火屋」昭和六年十月号は、石鼎が無意識に感じとっていた「神の国出雲」を認識したことを伝える雑誌であった。深吉野が記紀によって神話の出雲と繋がった時空であるばかりではない。初めて得た句「頂上や」の場が霊畤であることで、吉野をさらに特別な聖域と認識したのである。(ににん47号)
郷土信仰二
妻が物したる「白桃」の句の眺め、いと尊しと思ふ一句
皆人を神とぞおもひ桃しやぶる 昭和十三年
この桃の句の意味をどう捉えるのか戸惑うところだが、「皆人」は諸人と同義だろう。それは桃への最大の賛辞なのである。桃を作った人、それをもたらした人々への謝意である。手にしたのはとてもみごとな桃だったに違いない。
齧る、啜る、舐めるなど、食べ方の形容もさまざまである。しかし「しゃぶる」は桃にしか使わない。実際、林檎のようにナイフを使って皮を剥いて切り分けるなどという行儀のいい食べ方が出来にくい。薄皮を手で剥きながら、こぼれる果汁を吸うがごとく、むしゃぶりつくがごとく食べたことが想像出来る。
提示の句は妻の句に触発されたという前書きがある。妻すなわちコウ子の句は、
白桃に紅刷く清和女神かな 昭和十三年)
である。コウ子の句も、春の女神がもたらしてくれた桃の紅色を称えている。石鼎がコウ子の句に関心を寄せるのは「清和女神」、すなわち神話である。そのことを裏打ちするかのように、この句のあと同時期に詠んだ石鼎の桃の句は古語を駆使している。
厚くわれて核(さね)あざやかや早生(わさげ)桃(もも) 十三年
肉維核(にくいさね)にほのほのごとし大白桃
核に生えて維(すぢ)くれなゐや大白桃
これらの句は昭和六年の「深吉野抄下」の作品を思い出させる。もし、昭和六年十月号の古謡のような四十七句を周囲が称賛していたら、こうした古語を使用した句を次々と詠んだことが想像出来る。ことあるごとに、記紀につながる出雲への郷土信仰と感応するのである。その一つは『鳥見霊畤考』を読んだ直後の興奮に現れていた。
また、同時期に書いていた『言語学の出発・昭和十一年刊 昭和十三年刊』も、意識の底流には故郷出雲が置かれている。この本は読みとおすのに辛抱がいる。山本健吉は「彼が当時凝っていた言語学の講釈はいささか閉口だった(第三巻現代俳句の俳人たち)」とその執拗さに辟易した発言をしている。
それにも関わらずこの本は二年後に改訂して再版しているのである。石鼎の思い入れが伺える書は、故郷には(はら)といふ字音の入っている地名や姓が多いという事項から始まる。「原」という言語はどうして生まれたか、という言語の根源を探求しているのである。
仰々、我國に行はるゝ姓名とか稱呼とか地名とかいふものを見るに、皆之れ悉く天地、河海、山川草木、其地方角とか或るあやかり(、、、、)の意味を包含されていないものはない。 (言語学への出発 鹿火屋会昭和十三年刊)
この「あやかり」の一語でも、石鼎が日常を過ごしている天地を自然神として強く意識しているのが伺われる。
右の文中の「あやかり」で思い出される石鼎の同名の詩がある。ついでに紹介しておくことにする。自然からあやかることだろうか。
あやかりの歌
白戸(しらど)の海女は思へりき
黒戸(くろど)の海女は思へりき
白戸の海女はいま如何に
黒戸の海女ぞ今はいかにと。
白戸の海女はとどめ鳥
黒戸の海女は恋し鳥
白戸に育ち髫(う)髪子(ないご)は
いまはいづこに初なきの
その昔(かみ) 巣なるるともがら
春告をこそ思ふなれ
天さかる日に思ふなれ。
白戸の磯の鶯は
同じ母なる羽(は)ごくみを
ある夜の月に魂ぬけて
八千八声の
杜鵑をこそ思ふなれ。
出で月代に思ふなれ
黒戸の濱の歌ひ鳥
白戸の磯の歌よみ鳥
あやめの鳥の文無(あやなし)にかひやありやの落し文
冥途の鳥と経よみ鳥
海山遥に霞むなる
朝な夕なをとことはに
へだち啼くこそ是非なけれ。
白戸(しらど)の海女は思ふなり
黒戸の海女は早苗鳥
黒戸(くろど)の海女は思ふなり
白戸の海女は花見鳥。
實(げ)に乱鶯の思ひ音は
白戸の海女のなく音にて
雲井うらぶるおらび音は
黒戸の海女のなく音ぞも。
さあれ あさなさひまなげに
寝(いね)足(た)らぬ日もなきかはす
那須野が原の朝明篠原
(昭和八年正月試作)
右の詩について「空想的に情の趣くまま不知不識その異名をあしらひて出来たるもの」と註をつけている。読みあげたときのその調べの愀々と した心持ちを感じてくれればいいとも言っているのだ。これは韻律が心情を伝えられることを信じているものの発言である。こうした詩はそれ以前の昭和六年の八月号にもある。――偶然にも本雑記に、佛寺のことに関していふことが多かった、気分転換といふ訳でもないが、此中出来た戯作なるもの二つ三つ紹介することとしますーーと、あえて「戯作」だという断り書きを付して、弟子たちの干渉を避けているように感じる。石鼎の古謡のような詩や俳句を理解しない高弟たちへの付記なのである。
だがひとり保田與重郎は古代叙事詩ともいえるこの歌は、石鼎の詩や文章の中で特に註目するべきもので、愛誦に耐えるものだと称賛している。
こうした古典を遠望する傾向は石鼎だけの特別な志向ではない。詩歌の起源論は古典から始まる。否、三冊子のように神話から始まるのだ。同じ昭和六年十月号には市川かづをの「狐の玉づさ・和歌に因める芭蕉の俳句」と題する頁には、芭蕉の句にその句の起因の和歌が一句ごとに付されている。
これと同種の石鼎の文学起源論としては、「深吉野抄」を発表してから三年後の「鹿火屋・昭和九年六月号」に「俳句の基調と季感の必要」という俳論がある。ここで註目するのはその副題――試みに斯のやうな説をたててみる――である。この副題から昭和六年の「深吉野抄」の「更にあこがれの句(試作)をも併記することとした。」を思い出す。石鼎にとって「こころみ」と「あこがれ」は非常に接近していることばである。「あやかりの歌」も末尾に「試作」の一語が付されている。それは詩歌を書こうとするものの希求が使わせるのである。「あこがれ」も「試作」も、石鼎が新たな思想を手繰り寄せようとしていることばなのである。
「俳句の基調と季感の必要」の内容は十一ページほどで、その展開は伊邪那岐と伊邪那美から語り始めるのだ。それから和歌に移り柿本人麻呂、憶良、赤人を辿り、そのあと、古今集を語り細川幽齋・石田三成・後陽成天皇・宗(そう)砌(ぜい)法師・織田信長・里村紹(じょう)巴(は)などなど切りもなく名前が続いて子規にいたる。もちろんこれは三冊子に想を得て、それ以後を書き足しているのであるが、詩歌の起源を神代から語ることは、石鼎にとってはことに共感を得る事項である。
この事項から思い出すのが、『原石鼎全句集』の栞にある小島信夫、永田耕衣、海上雅臣の鼎談の会話だ。
小島 幻聴ってのは何が聞こえたんでしょう。
海上 それ体験してんのはぼくが最後ですけど、虚子との闘いなんですね。ぼくらと話しててもネ、途中で急に壁の方を睨む。そうしてね、まず、「後鳥羽上皇」と言うんです。それから「本阿弥光悦、近松門左衛門」と言って「松尾桃青芭蕉」と言うんです。そうしてちょっと間を置いて、「高浜虚子?」と叫んで、それからウンウンウンウンうなってね、壁へ向かって腕をふりあげながら歯ぎしりする、そこまでゆくと、疲れきってスッとひくように静かになる。
永田 凄いなあ。
石鼎最晩年のこの会話の中で挙げられた名前は、いきなり聞いたものには、無秩序な羅列としか思われないかもしれない。だが「俳句の基調と季感の必要」を読んだ後では、後鳥羽上皇・本阿弥光悦・近松門左衛門・松尾桃青芭蕉・高浜虚子が石鼎の中で一本の論に繋がっていることが想像出来る。しかし、これも三冊子の「後鳥羽の院の時、禅阿彌法師小林と云ふ、連歌差合其外の句法式の書付くと有り。」を念頭に置きながら近松門左衛門へ繋げたのだろう。
気になるのは石鼎が心弾ませながら書いた「深吉野抄 上下」が最後のページに置かれていることだ。本来なら、この記事は主宰の特別作品というステージが用意されてもいい筈である。少なくとも雑誌の中間くらいの場に置くのが普通ではないだろうか。
「深吉野抄」は雑記という括りの中にある。この雑記は「深吉野抄」を発表する三ヶ月程前の昭和六年六月号の文章の冒頭に石鼎自身が――四月号より雑記と表題してここに筆を執ることにした――とある。「雑記」は、ある号では雑詠の句評であり、ある号では蕉門の俳句鑑賞だったり、その記事のあとに先月号の訂正があったり、またある号では後に一書にまとめた『言語学の出発』の内容があったりと、かなり多岐に渉っている。そのために表題が決まらないのだろう。「雑記」の置かれた方も巻頭の近詠に続いたり、「深吉野抄」のように巻末に置かれたりと極めてランダムな編集なのである。例えば先に紹介した「鹿火屋・昭和九年六月号」にある「俳句の基調と季感の必要」も「深吉野抄」と同様に雑誌の巻末の扱いである。
「鹿火屋」の高弟たちは石鼎に何を望んでいたのだろうか。毎月の「雑記」の扱われ方で判断してみると、「蕉門の俳句鑑賞」「雑詠鑑賞」「YMCAの学生俳句会席上の講話」などは雑誌の前半ページに置かれている。ところが、「帰省日記」「深吉野抄」、そうして「俳句の基調と季感の必要」などは巻末に位置している。どうも、雑記の置かれるページの位置は内容によって決めているのではないかと思われる。弟子たちはきっと「テーマを決めて連載して」と言いたかったのだ。「雑記」でも「蕉門の俳句鑑賞」がかならず前半に置かれているのは、編集に関わっている高弟たちの望む形だったのである。
そのことが証明されるのが、定位置をもって単一の項目として連載された『石鼎窟夜話』である。これは幼年期までの自叙伝的な内容で、弟子の市川一男と水子六子の聞き書きである。現在は明治書院から上下巻の大冊となって発刊されている。「雑記」の扱われ方から推察すると『石鼎窟夜話』は弟子の眼鏡に適った内容だったのだ。
要するに試みにわくわくしながら書いた「深吉野抄」や「俳句の基調と季感の必要」、それから医学博士の田宮更幽子が「好ましくない現象だ」と発言した詩の類も編集部では不評だったのだ。夢想に生きる石鼎と、現実に生きる高弟たちとの齟齬があったのだろう。そこから、幼児時代から神話や騎士道の書の影響で城作りに専念したルードヴィッヒ二世を思い出す。
石鼎は昔の吉野山時代の俳句にくらべてこの続編を文学的に進歩したものと自負していた。しかし私にはこれが石鼎の単なる文学的憧憬とは思えなかった。私はいつか医師の更幽子が耳打ちした不吉なことばを思い出さずにはいられなかった。(市川一男『俳句百年』四)
市川一男の言う「続編」とは深吉野を偲ぶ古謡四十七句を言う。また不吉なことばとは、昭和六年の八月号に、「俗謡」「二笑」「踊の歌」と題する詩を発表している事に対して医学博士の田宮更幽子の「急にこのような事を書きだしたのは好ましくない現象だ」という発言を指す。市川一男へ精神の不調を示唆したような発言である。
だがこれらの詩を不吉だと批判した田宮更幽子だったが、昭和八年には作曲家であり箏曲家の宮城道雄の曲に詩を添える橋渡しをしている。依頼された勅題「朝の海」の歌詞は昭和八年正月二日に弾初めとして放送された。この件は石鼎に詩を書かかせる大きな弾みを与えた。
同じ昭和八年一月号にはその「朝の海」の詩が掲載され、二月号で、「批判二つ」「月見」「向日葵」「篠の子」「冬」「實りの秋」「アダリアン」「音(おん)のささやぎ」「あやかりの歌」と何篇もの作品を発表している。これをみても、嬉々として詠んだ「深吉野抄 下」の続きを書かない筈がないのである。「深吉野抄」の続編はよくない、という弟子たちの空気は強く石鼎に伝わっていたと判断している。「あこがれ」の句と言い「試作」とも書き添えた古謡「深吉野抄」のような連作をその後は繰り返していない。しかし良く見ればコウ子の(白桃に紅刷く清和女神かな)の句の清和女神に触発された古歌の数句が挿入されていたりすることはある。
周囲の反映が後の全句集作りにも現れる。先ずは昭和二十三年に発行された『石鼎句集・かびや会』には祝詞のような調べの四十七句は収録されていない。没後の昭和四十三年の求龍堂刊『定本 石鼎句集』にも掲載されなかった。句の調べが現代俳句の中に並べるには違和感がありすぎるからであろう。はじめて句集に現れたのは、平成二年の『原石鼎全句集・沖積舎』である。巻末に補遺として発表されている。没後五十年を経てようやく「ありし日の深吉野を偲んで」と題されて全句集に収録されたのである。
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October 22, 2012, 5:05 pm
熟柿を実感するのは、掌の上に乗せたときの感触である。掌に沈んでくるような重量感、そして指先に触れる実の柔らかさ。剥いてみればそのゼリー状の実が透明感を見せて、落とせば潰れてしまいそうである。それは身近な木からもいできたものだろう。(雨にぬれ日にあたゝみて)からは、日ごと眺めていた柿の木の背景が立ち現れ、眺めやった月日が重ねられている。ここには恩恵のような輪郭を得た熟柿が差し出されている。
石鼎は柿が好きだったようである。柿を詠んだ句が非常に多い。そのなかに熟柿を詠んだ句もたくさんある。
熟柿食いたる頬をすりよせぬ乳房の子 大正7年
嘴深く熟柿吸うたる目白かな 大正10年
熟柿吸ひし目白の嘴に秋日かな
熟柿落ちて紅くだけたる秋日かな 大正12年
つぶれある芒の中の熟柿かな
熟柿の腸芒の茎ににかゝり居り
熟柿もつ乳児見つつ打つ砧かな
熟柿くはへ飛ぶとき鴉羽光り 昭和5年
うすき蔕張りひろごりて熟柿かな 昭和12年
熟柿食うて大地よごしし昼淋し
雨に冷え日にあたたまり熟柿かな 昭和17年
雛紙老ねもごろや熟柿一つ
以上の句の昭和17年には、表題にした「雨にぬれ」の句と殆ど同じ句がある。これは改作というよりは、そんな句を作ったことも忘れて同じ内容の句を作ってしまったのだろう。僅かな表現の違いだが、初期の句が格段の格調を持っている。それは「雨にぬれ」の客観的な措辞と「雨に冷え」の主観的な措辞の違いによる。
この句を詠んだ大正9年は、句集『花影』の年譜によれば「隣に空家出来たれば此家も借り受け、一方を住居に、一方を仕事場に計画し。」とある。大正7年に虚子からの退社勧告をうけてホトトギスの発行所を辞めたあと、そして主宰誌「鹿火屋」発行を直前に控えた時期である。住んでいた麻布区龍土町54番地(現、港区六本木7丁目10)は現在の新国立美術館のすぐ近くである。(岩淵喜代子)
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October 29, 2012, 5:58 am
秋風はとても繊細だと思う。春夏秋冬、いつ吹く風も繊細ではあるが、俳句の中で使われる秋風は、つまり季語としての秋風は、風の中でもとりわけ繊細なように思える。
他の季節の風に比べて、軽さも際立ち、密度もうすい。視覚、聴覚、嗅覚、触覚では、その特質が控えめであるゆえ、触覚に特出して敏感だろうか。特質には、軽さ、うすさもあるが、そのころの温度や気象も大きく作用するから、透明である。
風は、それだけでは目に見えるものではないが、その見えないものの存在が、秋風によりいっそう感じられる。見えないものの存在、とはずいぶんおかしな言い方にも取れるが、それは風を額に、首筋に、手首に感じることで、今、そこに見えていないものが現れてくる、というようなこと。風を感じたことで心の内が刺激を受け、触発されて、いつもは深奥に漂っているものが、ふうっと浮かび上がるように現れる。それは、言葉にすると、はかなさ、うれい、というようなもの。漠とした、寂寞とした雰囲気。それはだがそこに居続けることはない。すぐに沈んでゆく。あるいは霧のように消えてゆく。あたかも風が過ぎ去ってゆくように。それにまた触発され、移ろいゆくものに対する思いも生れ出るのであるが。
そういうことが下地にある。そう考えてゆくと、模様のちがふ皿二つ の表現が、みごととしかいいようがなくなってくる。違う模様といっても、この二つの皿はおはじ系統の皿だろう。模様も響きあっているだろう。それでも違う。その微妙さ。それに目を留める作者の感性の鋭さ。
石鼎はこの時、精神的に追い詰められている。逆境にいる。だが逆境は詩人を磨き、研ぎあげ、珠玉の作品を生み出す力となる。
先日、宇多喜代子がある講演でこの句について、もし春風なら、模様は同じになる、とおっしゃっていた。それが季語の、春風と秋風の違いでもある。 (有住洋子)
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October 30, 2012, 4:48 pm
新幹線車内誌「ひととき」の11月号に、滋賀の写真家今森光彦氏による「琵琶湖の丸立て」なる陰影の濃い写真が載っていた。
近景にばっさりと大写しになっているのは、「丸立て」といって、刈った蘆を乾燥させるのに直径30センチぐらいの束にして、円錐状にいくつも立てられているもの。
その丸立てが北風に方々に吹き倒されているのである、その後方には人の背丈の倍もあろうかという枯蘆がまだ刈られずに蕭条としてたなびいている。
この丸立ての点在する風景は、昔から琵琶湖の周辺の到るところに見られたらしいが、蘆の需要が少なくなっていつしか消え去ったという。それが最近蘆が枯れたままでは日当りが悪く生態系によくないことがわかって、再び蘆原は刈られ、丸立てもボランティアによって復活しているのだという。
青空に白雲がちぎれながらに飛んでいるさまは、蘆の原とよく照応して見るからに壮観である。
この美しい一葉に心惹かれて、その後何気なく原石鼎全句集を繰っていたら、偶然にも掲句に出会って、「倒れしまま」が鮮やかに再現したのであった。
写真には蘆をなぎ倒す北風が吹いているが、俳句には秋の日差しがすみずみまでにも行き渡っている爽やかな日和である。夕べは野分が通り過ぎたのであろうか、びしょ濡れに倒れた一面の蘆の原がみるみる青空のもとに乾いていく。
「倒れしままの蘆の原」であればこその「秋晴」が思う存分にひろがってゆき、「秋晴」なればこその「倒れしままの蘆の原」が息づいている。
ちなみに「蘆」は、「芦」とも「葦」とも三通りの漢字があり、「アシ」とも「ヨシ」とも読み、みな同じものである。日本の古称は「蘆原の瑞穂の国」である。
人の知恵ある風景に魅力を覚えられたであろう写真を見ていると、ふと、飯島晴子の<枯芦の流速のなか村昏るる>が思い出された。
飯島晴子は視ることに執着した俳人であった。
―「視る」というのは、眼で外部の事物を見るだけではない。対象は自分の内部をも含めてあらゆるものであり、それを視覚だけでなく自分の総体でなるべくそのままに受け取ることである―と語った。
又、晴子は言葉にこだわる作家であった。
写実の句なら、写実を通してその向うに一つの時空が出現してこそ俳句、一方、非写実的な句ならば、写実ではない言葉の向うに詩としての リアリティーが現れていなければ俳句にはならないと言い切った。
言わずもがな原石鼎の句などは、ときに写実、ときに非写実であれ、言葉が詩の言葉として、機能しないということはないのである。
スケールの大きい一句は、自然をそのまま描写しただけのようでありながら、蘆の一本一本がどことなく身じろぐようにも感じられ、澄み切った空間を、自身の総体で受け止めている人の佇まいがひそと感じられるものである。
だからこそ読者は、そこにたたずむ人の眼となり、思いとなって、一句に没入するのである。 (草深昌子=晨)
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December 9, 2012, 10:02 am
臘月が陰暦十二月の異称と知ったのは、俳句と出会ってからだった。臘月の臘と、蠟燭の蠟は、もちろん字が違うのだが、なぜか白蠟のあの質感、色、つやが、いつの頃からか十二月にふさわしいと思うようになった。蠟燭が一年をかけて燃え尽きる。そういう気持ちにも適うからだろう。それが掲句とどこかで響きあっているようにも思う。
臘は、冬至の後の第三の戌の日(臘日)に行う祭のこと。それを臘祭といい、猟の獲物を先祖百神に供える。それでこの月を臘月というのだそうだ。
臘日は十二月八日にもあたり臘八ともいう。釈迦が悟りを開いた日とされている。季語にもある臘八会が行われる日。それがひいては僧侶の出家後の年数、または年功を積んで得た地位や身分にも使われる漢字になったのであろう。
臘は、臈とも書き、臈は臘の俗字でもある。
狐の面を入口として入った空間を、そういうことを考えながら見渡していると、さまざまなことが見えてくるような気がする。そのさまざまなことは臘月という大いなる季節に包まれていて、しなやかさ、孤独さ、透明感に満ちている。冷たい空気の張りがあるが、霧のような乳白色の流れもある。生の衰えも感じられる。狐の面がまたくっきりと浮かんでくる。(有住洋子)
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December 10, 2012, 10:17 am
人の足の運びを見ていると、その動きとともに足裏がちらちらと上向く。静かに歩いていれば足裏もゆっくり見えるし、足の運びが早ければそれなりに白足袋の裏がリズムカルに裏返る。まるで足袋裏が生き物、例えば太郎冠者と次郎冠者の掛け合いのように動いているのだ。
カメラアングルということばがあるが、一句は足袋の裏側に視点を得たことで成り立たせた作品。それがゆるがないのは、つぎに置かれた(見えつ空)によってさらに確かになる。足の運びと同時に空も視野に入る位置が提示されているからである。白足袋が見えたり空が見えたりしているのではない。足袋を見る視野の中に空も見えていた、ということなのである。一句は足袋裏を見つめながら、足袋の向うの空を引き寄せている。
昭和15年とは、麻布本村町の大きな邸宅に住んでいたころ。石鼎は不運にも牡蠣中毒から長い入院生活を強いられるようになった。当然、臥せっていることが多く、妻コウ子が身辺を行き来しながら、甲斐甲斐しく看病していただろう。この句には、束の間病気を忘れて、足袋裏の動きに目を据えていた笑顔の石鼎がいる。
(白足袋の白き裏見え)と述べたあとふたたび(見え)という言葉を使用するのは躊躇うものだ。だからと言って遠近のものを一つのことばでは括れない。また(足裏が見え空が見え)のようなリフレインを使用したくはなかったのである。それでは句の格調が失われ、足袋にあてた焦点がぼけてしまう。なによりことばがムードに流れる。
空と対象物だけを捉えた石鼎の句としては、人々に膾炙された(晴天や白き五弁の梨の花 昭和12年)がある。この句は青空に貼り付けた白い梨の花を絵画的な静の世界として捉えている。だが、白足袋の句はまさに動画である。いままで履いている足袋と空を一枚にした作品があっただろうか。(岩淵喜代子)
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December 17, 2012, 10:08 am
風邪が長引いて、なかなか治らない。
そこへ、「ビタミンCを沢山とって風邪を引かないようにね」と松山の友人が、甘くて大きな温州みかんをどっさり届けてくださった。
思わず私の好きな一句、
みかん黄にふと人生はあたたかし 高田風人子
が思い浮かんだ。
蜜柑は食べ出したら止められない。若いころは、手のひら足の裏が真っ黄色になるほど食べていた。その味もさることながら、蜜柑の黄という、日の光を思わせる色彩は、たしかに一家団欒、よき絆の象徴のように思われてくる。
そこで、石鼎ならどんな「蜜柑」の句を作るのであろうかと、全句集を繰ってみたら、掲句に出会った。
何と面白い句であろうか。およそ蜜柑という季題でこういうところを句にするものであろうか。「やっぱり石鼎だな」と頷かされる。
昼日中の眼鏡でなく夜の眼鏡であるところがよい。灯火の真下に置かれた蜜柑の黄はいっそう濃そうである。
ソフトなるものの上の硬質なるもの、その取り合わせが決まっている。このしんかんたる夜の眼鏡は何ともの静かであろうか。
「のせにけり」ではない、「のせてあり」である。いつ載せたのか、無意識のなせる業である。そのことを今さらに見直しているのが詩人の眼である。
石鼎のことを私はしかつめらしく思わない。どこか変だと思う、そのつかみどころのなさが、おかしい。面白い人でなければ面白い俳句は作れない。
もっとも蜜柑の句のどこが面白いのかと問われても論理的には答えようがない。面白いと直感した人だけが面白く感じられるだけである。
そもそも俳句とはどこにも因果関係がなく、直感で作り、直感で読むだけのものである、そのことを石鼎の句は物語っている。
(草深昌子=晨)
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December 24, 2012, 11:37 am
石鼎は昭和26年12月20日、享年65歳で没している。掲出句は絶句として、昭和27年2,3月号の追悼号に発表されたもの。
松はとりわけ大きな木だったのだろう。実際に石鼎の門前にあったようだが、私は何度か石鼎居を訪れたことはあったが、松の木があることに気がつかなかった。多分仰ぐことで松だと認識するような高い所で枝を張っていたのかもしれない。
本来松は常緑樹だが、絶えず落葉を降らせている。それを掻き集めて霜除けに利用したり、風情を演出するための敷松葉として使用したりする。高木の落す松葉は広範囲に及び、木々の枝という枝に引っ掛ったままゆらゆら揺れている光景を「かからぬ五百木無かりけり」と詠っているのである。
一説に松は神が天降るのを待つという意味もある。石鼎は二宮に棲み始めた頃、日本武尊の走り水の故事に所縁の地であることを非常に喜び、文章にも残している。「松朽ち葉かからぬ五百木無かりけり」は、神話の国出雲に育った石鼎の信仰を象徴している。
青女放つ鶴舞ひ渡る相模灘
碧天を青女の使ひ鶴渡る
大空と大海の辺に冬籠る
実際、最晩年に発表した句には神を意識している気宇壮大な句が多い。足も不自由で隣室へ移動することも思う様にはならなかったが、心は遠くに浮遊していたのではないだろうか。
石鼎には芭蕉に影響されたと思われる句がいくつもある。松といえば「辛?の松は花より朧にて」をおもいだしたかもしれない。
あるいは、青年時代に訪問した徳富蘆花のーー私は一体、梅の未だ咲かない前の、松の針葉が稍々黄ばんで、杉が焦げ茶色になつた頃の、日もまだいくらか寒いきさらぎ頃の時候が一番気に入つてますーーの言葉をおもいだしたろうか。
あるいは、ーー其砂丘を越えて今一つの小高い松林の丘を越えようとすると、何と、そこの松の間から海が見えて来た。松も青い空も青いが、其どれよりも蒼々とした海が見えだした。(石鼎窟夜話)ーーというような幼児の頃見た数々の松のある風景をおもいだしたのだろうか。 (岩淵喜代子)
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December 29, 2012, 3:00 am
木菟は鋭いくちばしや爪を持ち、目や耳はとても敏感である。だが飼われていれば、それは役に立たない。夜行性なので昼間は巣の中で休んでいるはずだが、その本質も奪われている。ずいぶん前に動物園で、短いくさりに繋がれた梟を間近に見た時の、いたたまれない気持ちを思い出す。あの時も、突き抜けるような冬の青空だったのではないか。耳はどうなっていただろうか。梟の耳は目立たないが、木菟の耳はとがっている。
作者の心情とも共鳴しあっていただろうが、それについては、『原石鼎全句集』の年譜が興味深い。年譜の下段は、そのころの時代背景や、当時の俳壇の状況などが記されているのである。
(この頃、我鬼と号して句を作っていた芥川龍之介に、当時の「ホトトギス」の傾向と石鼎の位置を示す随筆がある。)「俳句を作るに三つの態度があると思う。一つは物をありのままに写す純客観の態度で、写生というのは大体これに当る。(略)次は自然や田園が自分に与える印象なり感じなりを捉えて現わすもの。 これは石鼎君の句に多いが、例えば「短日の梢微塵に暮れにけり」といったような句である。最後は純主観句で「天の川の下に天地天皇と臣虚子と」のような句がそれである。三つのうちでどれがいいかということは一概にいえないけれど、私は中の態度をとる。」(芥川龍之介「ホトトギス」二八一号 大正9・1)
芥川が引用している、(短日の梢微塵に暮れにけり) は、掲句の二年前に作られている。(有住洋子)
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December 29, 2012, 8:55 pm
大年は一年最後の日。
元旦を明日に控えたその日は、寒々しいなかにも、冬日があまねくゆきわたっているのであろう。石鼎が眼を落した、そこには緑の草々が小さな丈を保っているというのである。
「日のさしてゐる小草」は一年365日のいつだっていいだろう。だが、この「大年の日」にまさるものはないように、今年の私には思える。
取るに足らないような小草である。いたずらに生えてもいるような小草である。
だがこの一年という歳月を振り返ってみると、本当にお疲れさまとでもいいたいような小草である。何かしら希望を見い出せるような小草である。
小草に愛しさが充満するのは、「大年の日」がさしているからにほかならない。
「大年」の「大」に対して、「小草」の「小」というのはいかにも配合したようで、技巧的であると思われるかもしれない。
石鼎はそんな小賢しい知力より前に、瞬時に何かしらを掴みとってしまう感受性が並はずれている。
それが終生、石鼎の悩ましさではなかっただろうか。
我知らず技が光ってしまうのが石鼎のあわれのように思えてならない。
そのことを石鼎自身はよくわきまえていて、先走ったものを必ず引きもどして見せることを忘れなかった、人としての愚かさを惜しみなく見せてくれるのであった。
石鼎の俳句の魅力は、作品そのものもさることながら、石鼎その人を読ませてくれるというところの方が大きいかもしれない。
たとえば、掲句のあとに、
大年を掃かれて起きる小草かな 大正10年
を遺している。
つい先日、私も竹箒を遣ったが、枯草や落葉は軽々と掃き寄せられても、青い草々は、掃いても掃いても、箒なんぞには屈しないしたたかさがあった。
小さいながらも、その根をしかと張っているのである。
こういう句を読むと、天才石鼎はどこかへ失せて、そこに居るのはただの好々爺のように思えるのである。
かといってこの句はなんと弱冠35歳である。 (草深昌子=晨)
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December 31, 2012, 1:17 pm
座敷の毛氈の上には大きく繪絹が展げられて、いま絢爛たる孔雀の繪が描きかけとなってゐる。羽毛などの鮮かな色彩を施されたところと、まだ素地や線がきのところと、その混沌たる画面は、そのほとりに散在する硯筆洗や繪具皿と共に雑然とした様相を呈して居る。
而も、開けられた障子の縁側から座敷の奥の一部へ射し込んだ、明るい小春の陽光を受けて、夫等の雑然としたものが、それぞれに美しい色光を放ち、雑然としたなりに渾然たる美しさとなって居る。それは小春日なるが故の、孔雀の繪なるが故の、而して描きけの繕なるが故の深き趣である。美しきものの未完成の魅力は、暖かさのうちに一脈の哀れさをもつ小春日の風趣と相通じて、なつかしくも読者の魂をゆさぶる。
画人は一寸筆を擱いて測近く座を移し、一本の煙草に火を鮎じて、玲瓏と澄む青い空を仰いで心ゆくまで煙を吐く。庭先の残りの紅葉が、風もないのに一二片地へ落ちる。
画人は眼を転じて譜面を見る。大作にとりかかった自分がほゝ笑ましい、まだこの世の存在はなつてゐない、併し間も無く生れ出づるであらう、自分がこの世へ送るであらうところの孔雀に、限りなき愛着が疼く。この美しき小春日に描き出される孔雀に幸あれ。
孔雀描く繪のなかばなる小春かな
画人石鼎は俳人石鼎に帰って、腹の底から、深い息と共にこの句を吐き出し、會心の微笑を洩らされた事であらう。
私は眼をつぷってあの麻布本村町の高薹の画室での、十何年前の画人石鼎先生の悌をなつかしく想ひ浮べ、この句をしっかりと胸に抱きしある。
(「鹿火屋」昭和20年12月号転載。京極杜藻=鹿火屋創刊同人)
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January 5, 2013, 10:36 pm
石鼎評伝を書いていた時に「麻布本村町」という本を古書店で買ったのだが、その著者が大正14年生れの方。生存もあやぶんだが手紙を出してみたらお元気であったことは、評伝にも書き込んでいる。
その荒さんに今年もお年賀状を出してみた。現在88歳の荒さんは一時、手術などなさったようだが、今はそれも乗り越えて徐徐に回復しているというお返事を頂いた。私より高齢者の方がお元気なのは私もそこまでは生きられるのかという希望に繋がって、とても嬉しい。
さらに嬉しい事には、暖かくなったらもう一度本村町を歩いてみようと思っているとおっしゃっていることだ。それで、2013年新年号「俳句」に「忘れられない挨拶句」のテーマで、私は本村町を歩いた話を書いたことをメールした。まだ書店で手にすることが出来るからだ。
その返信で、著書「麻布本村町」を書くときにご縁が出来た方の家によく須賀敦子さんが遊びに来ていたという話を思い出して、連絡したことがあったというお話がしたためられていた。そのとき、会話もままならないで、湘南で療養生活を送っているというご家族のからのお返事を頂いたという。
とにかくそうしていろいろな記憶が消えていくのだろう。
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January 14, 2013, 8:04 pm
蛇笏より石鼎への手紙(一部)
石鼎君、恙うして君は都の便りを呉れないのだろう。別離の際語り合った時、君の口から 発せられた言辞はそんなはづではないやうな今尚耳底に残ってゐる。
朝の路上にも最う秋風が仄白く見えるでせう。孤燈をかきたてて句作に耽って居る間にも何処ともなく秋の声が聞えて瞑想の時をもたらすでせう。都のたよりを伺いたいものだ。
恙ういふわけか、あの外濠の水の上で藻を掻いて居た舟中の人がまざまざと限に残って居る。赤い灯青い灯電車自動車而うしてまた着飾った女の群れ、其れ等のものが絵巻の様に繰り展げらるる中にかの水上の藻掻き。真夏の烈日が強く而も静かに四辺を照らして居た。
山国へ帰っての生活は人に羨まれるやうなものではない平々凡々――さうだ平々凡々といふ外はない、人間を孤独で陪黒な静寂の境へ置いたならばその人間は必ず気狂ひになって死んで了ふといふ論を何かで読んだやうに覚えて居る。
茲にいふ平々凡々なるものは其の暗黒で静寂な境に庶幾い意味である。
然し夫れは庶幾いといふまでであって此れを具体的にいふなら其更に金銭の取扱ひもあらうし其の他愚な雑多な仕事――自分の限からは所謂平々凡々の仕事がある。時によると其れに心をうばはれて居る事もある、其処に自分の人間臭が見出され辛うじて気狂ひにもなり得ずに居る。
今日は秋雨のすがすがしい目だ。鶏頭が前庭に雨をうけてかがやかに咲いて居る。鶏頭に対し竿を執って君の便りを促がす 草々
(大正四年九月四日付、ホトトギス発行所原石鼎宛)
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石鼎の返信(一部)
謹啓
私がいま此手紙をかくときはすがすがしい心持がする。
近来にない秋日和の所へもつて来てホトトギスの原稿は全て〆切ずみと相成、今日少し暇だから早めに帰つて借間といつても四畳半だけれど障子をすっかり開け放つて、而も出さう、返事を出さなければならぬ、出さなければ蛇笏が鎌首をもたげるやうでならぬ蛇笏はなめくじ、ゐもり、とかげ、やもりといふ発句上の手下が居つて赤い舌を出して一斉に此方を向くから堪らない。それがやつと今日の今返事を出せる程の時間を得たといふのだもの、すがすがしいではないだろうか。
君は手紙で山国の生活を敢て羨ましいことではないと言つてよこしたね。そんな贅沢をいふもんじやない。そんな贅沢はどこに居つてもおえる贅沢であつて、けれどお隣りの熊公や甚平のやうなことを面白がれといふもんじやありません。
私がね吉野に居る頃によい月でせう。
月光の中を泳ぐといふ言葉があつたら杉の木の上からサ−ッとさして来る月の中に一人で立つた時にね、私はいつも泳ぐんでないと否定はしないと思つたことがある。アノ由緒ある流れのほとりでも虫が啼いてゐるでせふ。
虫の音は渓川の水音よりも高い音響をもつてゐるものですね、どうです、機窓の柘榴は実になつたでせう。月夜つゞきともなつて、矢張り細君は薫なんか焚いておめかししてゐるんですか。
山国の生活も俳句や小説を逃げては矢ツ張り熊公、甚平ですね。
「何かさて東京などは全く駄目です。それでも発行所へ虚子先生が見えると
先づ安心するんだが、お能にあまり熱心で鎌倉にばかり居られると、何だかたまらなく淋しい。淋しい筈ですよ。そんな消息は蛇笏なら解るだろうと思ふがね。
蛇笏といふ僕の新しい友人は物を知ってゐて割に知った顔をしない奴で困る。
そんなことはわからぬ、と答へるに違ひない。例の入釜敷かつた(君と僕との二人の間で)句会も第一期を終了して第二回に入ってゐる。
大正四年九月二三日
(山梨県立文学館開催の『没後五〇年 飯田蛇笏展』に展示されたもの)
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January 22, 2013, 12:35 pm
燃え盛る火の前にいるとどういう訳か目が釘付け、人間の原始本能が思われもする。たやすく焚火などできない時代になってしまったが、いつでもどこでも管理されたお手軽な火ばかりでいいのだろうかと疑問さえに思う。
掲句、「焚火」というからには煮炊きの火ではなく暖を取るための火だろう。「俄に燃えて枝ひとつ」は眼前の写生そのものでありながら、寂しみと悲しみのないまぜになった心の在り様を垣間見るかのようだ。深読みではあるが、「俄に燃えて」の措辞に生きるというせつなささえ感じる。「燃ゆる」「燃えし」ではなく、「燃えて」の謂いの故だろうか。
「俄に燃え」るのは、たまたまの燃焼の具合をいうのか、木の種類によっては油分を多く含んで燃えやすい種類があるものも確か。しぶしぶと烟るように燃える榾木の中にあって、輝くような火の色をたてる様を捉えて、美しくも悲しい一句と思う。 (清水和代=春塘)
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January 31, 2013, 3:19 am
べにと白の対比がうつくしい。玻璃戸を隔てて、内には一点のべに、外は雪の白。べに色と白のほかの色は表現されていない。べに色が際立つほど、その人は色白、そして室内は昼間でも薄暗いのだろう。透明な板一枚から、吹雪が窓辺の人に見えている。外ははげしい動、内は静の世界である。吹雪の白にごく少量のべにの配色からは、雪女のイメージも浮かんでくるのだが。
石鼎は唇のべに色に臙脂という字を使った。辞書を見ると、臙脂には生臙脂(しょうえんじ)という意味があり、それは、あざやかな紅色の顔料を綿に染め、乾かしたものを湯に浸し、そのしぼり汁で染めた濃い紅色のこと、とある。
紫と赤の間の深みのある色、臙脂色というと、ビロード布を思い出す。大正時代や昭和初期、女性の衣服にこの色のビロードが広く使われた。掲句には、そのころの時代背景の匂いがする。石鼎は臙脂色が好きだったのかもしれないとも思う。昭和七年冬の作品には臙脂の字が多い。
寒臙脂のにがきにたへて閨に深し
寒臙脂の蓋紙いまだ破れざる
持ち古す猪口に寒臙脂買ひにけり
寒臙脂の玉虫色をしまひけり
いずれも臙脂の字は、べにと読む。
どの色もそうだが、あかい色、と一口にいっても、その色合いはさまざまである。紅、緋、赤、赫、赭。紅に真をつけて真紅とすると、さらに色の味が変わる。また丹、蘇芳、紅殻、時色(とき)、紅絹(もみ)など、昔からさまざまな色味が生まれ、使われてきたのだ。臙脂もまた歴史が古いのであろう。
臙脂の字の由来には、四世紀から五世紀にかけて存在した、中国大陸の燕という国の、そこに咲いていた紅花から作られた紅なので臙脂、という説もある。臙脂色の歴史は、何百年、何千年という単位かもしれない。吹雪の日は視界が不思議な見え方をする。不思議な時空に誘われる。 (有住洋子)
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