石鼎は「見る」ということに対して、又「見る」という言葉に対してことのほか敏感であった。
岸本尚毅氏が、その著『虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』に取り上げた、
山川に高浪も見し野分かな
も、「見し」の措辞が並外れている。
―「山川に高浪見えし野分かな」の「見えし」と比べるとわかるが、「見し」とすると文体が主体的・意志的になり、読み手に強く迫って来る。―
この一句を、氏は気迫の漲った、「石鼎の一世一代の名吟というべき作品」と讃えている。
「高浪の立つ野分かな」でなく、わざわざ「見し」とするところがすでに石鼎の天才ぶりを物語って、私も何度溜息をもらしたことであろうか。
掲句もまたしかり、「見たり」でなく「見せし」、今度は石鼎の側でなく即稲雀の側に立った表現が鮮やかである。
ふと見せた意志ある瞳は、読み手もまた「ああ、見てしまった」という思いを持って見てしまうのである。
一読して、一句のベールがさっと開いて、詠み手と読み手の心が一つになるという感じ。
「稲雀」はもとより雀の種類ではなく、稲の黄ばむころに群れをなしてくる雀をいうのであるからして、稲がそこにあるかぎり稲を食べねばならぬ生き物ということになるだろう。
ここでふと思い当るのが、
淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守
である。鹿火屋守というのは鹿火屋の番人であるから、山畑を荒らしに来る鹿や猪を追い払うために銅鑼を打たねばならぬものになっている。
これをいちいち淋しいから打つなどとは鹿火屋守は思ってもいないであろう。
むしろ意気に燃えて一晩中無心に銅鑼を打っているのではないだろうか。
だが時として、その余韻を聞くにつけ、ふと何がしかの淋しを感受した人が、鹿火屋守になりきって「淋しさにまた銅鑼うつや」となるのである。
そして、そう詠われてみると、これぞ鹿火屋守の本質であったかもしれないと思うのである。読み手は自身の心の奥底にかねてから感じていた、生きていくということの孤独に一つの形を与えられたような思いがして、いたく合点がいくのである。
稲雀も今はただ稲穂をついばむことに必死であるだけに過ぎない。
だが、ひとたび石鼎に見られてしまった瞳は何を隠そう稲雀の本性そのものであったのではないだろうか。
かの鹿火屋守と同様のありようである。
ではその瞳は果たしてどんな瞳であるというのか。
その瞳は具体的に、とんがっているとも、つぶらであるとも、文字通り欣喜雀躍だとも、ここに書き出すことはできない。
読み手の一人一人の眼に映った瞳こそが、雀の心の瞳である。
私にはなぜかこんな一首が浮かびあがった。
家といふかなしみの舟成ししよりひとは確かに死へと漕ぎゆく 島田修二
生きるかぎりは生きるということのほかに説明のつかない精いっぱい生きている雀の瞳である。
石鼎は、この年の暮に65歳で亡くなっている。
思い返せば、石鼎は37歳の折に、こんな稲雀を詠っていた。
延べ細るつむりにくしや稲雀
桑をのぼる雀稲を食ふ奴なりし
抱きし穂の本から喰みし彼の雀
この大正11年は、前年に「鹿火屋」を主宰し、学生俳句会の指導に余念がなかった。
「家といふかなしみの舟」を漕ぎだしたばかりの、前途洋洋のころの句である。
この若さに漲った句々から、およそ30年後、死の直前に見た雀の瞳は、小さくもまた何と貪欲に光っていることであろうか。
生きてあるいのちというものは、これほどまでに愛おしいものであったのだった。
稲雀の瞳はそのまま石鼎の瞳に乗り移った。
雀の力を得た石鼎は、はたとよみがえったであろう、雀もまた石鼎の瞳に言い知れぬ輝きをもらったのではないだろうか。
客観写生のありようもここにきてその最終章に至りついたと言おうか、切なくも力強い臨場感に満ちている。
(草深昌子=晨)
岸本尚毅氏が、その著『虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』に取り上げた、
山川に高浪も見し野分かな
も、「見し」の措辞が並外れている。
―「山川に高浪見えし野分かな」の「見えし」と比べるとわかるが、「見し」とすると文体が主体的・意志的になり、読み手に強く迫って来る。―
この一句を、氏は気迫の漲った、「石鼎の一世一代の名吟というべき作品」と讃えている。
「高浪の立つ野分かな」でなく、わざわざ「見し」とするところがすでに石鼎の天才ぶりを物語って、私も何度溜息をもらしたことであろうか。
掲句もまたしかり、「見たり」でなく「見せし」、今度は石鼎の側でなく即稲雀の側に立った表現が鮮やかである。
ふと見せた意志ある瞳は、読み手もまた「ああ、見てしまった」という思いを持って見てしまうのである。
一読して、一句のベールがさっと開いて、詠み手と読み手の心が一つになるという感じ。
「稲雀」はもとより雀の種類ではなく、稲の黄ばむころに群れをなしてくる雀をいうのであるからして、稲がそこにあるかぎり稲を食べねばならぬ生き物ということになるだろう。
ここでふと思い当るのが、
淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守
である。鹿火屋守というのは鹿火屋の番人であるから、山畑を荒らしに来る鹿や猪を追い払うために銅鑼を打たねばならぬものになっている。
これをいちいち淋しいから打つなどとは鹿火屋守は思ってもいないであろう。
むしろ意気に燃えて一晩中無心に銅鑼を打っているのではないだろうか。
だが時として、その余韻を聞くにつけ、ふと何がしかの淋しを感受した人が、鹿火屋守になりきって「淋しさにまた銅鑼うつや」となるのである。
そして、そう詠われてみると、これぞ鹿火屋守の本質であったかもしれないと思うのである。読み手は自身の心の奥底にかねてから感じていた、生きていくということの孤独に一つの形を与えられたような思いがして、いたく合点がいくのである。
稲雀も今はただ稲穂をついばむことに必死であるだけに過ぎない。
だが、ひとたび石鼎に見られてしまった瞳は何を隠そう稲雀の本性そのものであったのではないだろうか。
かの鹿火屋守と同様のありようである。
ではその瞳は果たしてどんな瞳であるというのか。
その瞳は具体的に、とんがっているとも、つぶらであるとも、文字通り欣喜雀躍だとも、ここに書き出すことはできない。
読み手の一人一人の眼に映った瞳こそが、雀の心の瞳である。
私にはなぜかこんな一首が浮かびあがった。
家といふかなしみの舟成ししよりひとは確かに死へと漕ぎゆく 島田修二
生きるかぎりは生きるということのほかに説明のつかない精いっぱい生きている雀の瞳である。
石鼎は、この年の暮に65歳で亡くなっている。
思い返せば、石鼎は37歳の折に、こんな稲雀を詠っていた。
延べ細るつむりにくしや稲雀
桑をのぼる雀稲を食ふ奴なりし
抱きし穂の本から喰みし彼の雀
この大正11年は、前年に「鹿火屋」を主宰し、学生俳句会の指導に余念がなかった。
「家といふかなしみの舟」を漕ぎだしたばかりの、前途洋洋のころの句である。
この若さに漲った句々から、およそ30年後、死の直前に見た雀の瞳は、小さくもまた何と貪欲に光っていることであろうか。
生きてあるいのちというものは、これほどまでに愛おしいものであったのだった。
稲雀の瞳はそのまま石鼎の瞳に乗り移った。
雀の力を得た石鼎は、はたとよみがえったであろう、雀もまた石鼎の瞳に言い知れぬ輝きをもらったのではないだろうか。
客観写生のありようもここにきてその最終章に至りついたと言おうか、切なくも力強い臨場感に満ちている。
(草深昌子=晨)