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臥せし穂にふと瞳を見せし稲雀    原石鼎(昭和26年)

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 石鼎は「見る」ということに対して、又「見る」という言葉に対してことのほか敏感であった。

 岸本尚毅氏が、その著『虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』に取り上げた、

  山川に高浪も見し野分かな

も、「見し」の措辞が並外れている。
―「山川に高浪見えし野分かな」の「見えし」と比べるとわかるが、「見し」とすると文体が主体的・意志的になり、読み手に強く迫って来る。―
 この一句を、氏は気迫の漲った、「石鼎の一世一代の名吟というべき作品」と讃えている。

 「高浪の立つ野分かな」でなく、わざわざ「見し」とするところがすでに石鼎の天才ぶりを物語って、私も何度溜息をもらしたことであろうか。
 掲句もまたしかり、「見たり」でなく「見せし」、今度は石鼎の側でなく即稲雀の側に立った表現が鮮やかである。
 ふと見せた意志ある瞳は、読み手もまた「ああ、見てしまった」という思いを持って見てしまうのである。
 一読して、一句のベールがさっと開いて、詠み手と読み手の心が一つになるという感じ。

 「稲雀」はもとより雀の種類ではなく、稲の黄ばむころに群れをなしてくる雀をいうのであるからして、稲がそこにあるかぎり稲を食べねばならぬ生き物ということになるだろう。
 ここでふと思い当るのが、

  淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守

である。鹿火屋守というのは鹿火屋の番人であるから、山畑を荒らしに来る鹿や猪を追い払うために銅鑼を打たねばならぬものになっている。
 これをいちいち淋しいから打つなどとは鹿火屋守は思ってもいないであろう。
 むしろ意気に燃えて一晩中無心に銅鑼を打っているのではないだろうか。
 だが時として、その余韻を聞くにつけ、ふと何がしかの淋しを感受した人が、鹿火屋守になりきって「淋しさにまた銅鑼うつや」となるのである。
 そして、そう詠われてみると、これぞ鹿火屋守の本質であったかもしれないと思うのである。読み手は自身の心の奥底にかねてから感じていた、生きていくということの孤独に一つの形を与えられたような思いがして、いたく合点がいくのである。

 稲雀も今はただ稲穂をついばむことに必死であるだけに過ぎない。
 だが、ひとたび石鼎に見られてしまった瞳は何を隠そう稲雀の本性そのものであったのではないだろうか。
 かの鹿火屋守と同様のありようである。

 ではその瞳は果たしてどんな瞳であるというのか。
 その瞳は具体的に、とんがっているとも、つぶらであるとも、文字通り欣喜雀躍だとも、ここに書き出すことはできない。
 読み手の一人一人の眼に映った瞳こそが、雀の心の瞳である。

 私にはなぜかこんな一首が浮かびあがった。

  家といふかなしみの舟成ししよりひとは確かに死へと漕ぎゆく    島田修二

 生きるかぎりは生きるということのほかに説明のつかない精いっぱい生きている雀の瞳である。
 石鼎は、この年の暮に65歳で亡くなっている。
 思い返せば、石鼎は37歳の折に、こんな稲雀を詠っていた。

   延べ細るつむりにくしや稲雀      
   桑をのぼる雀稲を食ふ奴なりし
   抱きし穂の本から喰みし彼の雀

 この大正11年は、前年に「鹿火屋」を主宰し、学生俳句会の指導に余念がなかった。
 「家といふかなしみの舟」を漕ぎだしたばかりの、前途洋洋のころの句である。
 この若さに漲った句々から、およそ30年後、死の直前に見た雀の瞳は、小さくもまた何と貪欲に光っていることであろうか。
 生きてあるいのちというものは、これほどまでに愛おしいものであったのだった。

 稲雀の瞳はそのまま石鼎の瞳に乗り移った。
 雀の力を得た石鼎は、はたとよみがえったであろう、雀もまた石鼎の瞳に言い知れぬ輝きをもらったのではないだろうか。
 客観写生のありようもここにきてその最終章に至りついたと言おうか、切なくも力強い臨場感に満ちている。

      (草深昌子=晨)

『二冊の鹿火屋』 講演記録

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 こうした場を与えていただいたお蔭で、今日は久しぶりに石鼎のお墓詣りをすることができました。この二宮はまさに原石鼎終焉の地なのです。
 紹介していただいた『頂上の石鼎』を書きあげたのは四年ほど前になります。鹿火屋で勉強している間は、毎年、石鼎の忌日にはこの二宮の知足寺を訪れておりました。しかし、ただ、それだけのことでした。「鹿火屋」に在籍していたからと言いましても石鼎についての情報が蓄積されてきたとは思いませんでした。
 
 それでも、何か書くなら石鼎しかない、と思ったのはやはり「鹿火屋」の中にいますと石鼎の人物像がいつの間にか私の中に一番親しい俳人として存在していたのだと思います。
しかし、書き始めてから感じたのは様々な事実があっという間に曖昧になってしまうことでした。たとえば、「秋風や模様の違ふ皿二つ」の句で有名な駆け落ち先が米子であるということまでしか分かっていません。その米子へ村上鬼城が送った手紙にはきちんと宛先があるのですが辿ることができません。それは昭和四三年刊の井沢元美著『島根文学地図』のなかで、すでに不明と結論つけられております。
もっと新しい時代、昭和二年から昭和十六年まで住んでいた麻布本村町の家の場所が、住所が分かっているにも関わらず特定できませんでした。どいうことかと申しますと、当時の鹿火屋発行所の住所である麻布本村町一一六番地は、学校がすっぽり収まってしまう広大な土地だったのです。現在はそこに、百軒くらいの住宅が建っております。
 
 わたしが鹿火屋に入会した直後の昭和五一年頃なら創刊時からの弟子たちが何人も健在でしたが、現在はその場所に立って、ここだとピンポイントで確認出来る人がいません。そんな風にして史実というものはあっという間に消えていくのを実感いたしました。
しかし、評伝を書いていて何が楽しかったかと言いますと、その俳句のために旅もしますし、その土地の見知らぬ人とも石鼎を通して親しくなって、旅の場が盛り上がりました。

 それではまず、石鼎の俳人としての歩みから入りたいと思います。石鼎といえば大方のひとが知っているのが「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」だとおもいます。今回はこの「頂上や」の句を軸にしながら、話を展開させていただきます。
この「頂上や」の句がどのように登場したのかは、ご存知だと思いますが、そこから初めてみます。
医学専門学校を落第によって放校処分をうけ、放浪している時期に医師である兄の助手として入りましたのが、現在の奈良県吉野郡東吉野村です。そこから「ホトトギス」への投句から始まります。それがお手元の資料「ホトトギス」大正元年十二月号と書かれたあとに続く六句です。

  鹿垣の門鎖し居る男かな 
  空山へ板一枚を荻の橋
  頂上や殊に野菊の吹かれ居り
  山川に高浪も見し野分かな
  山の日に萩にしまりぬ便所の戸
  鉞に裂く木ねばしや鵙の声

 以上の経緯が一般的に知られています。ところが、このホトトギスへの投句の前に、「奈良朝報」という地方新(大正元年十月三十日号)に投稿しております。それもお手元のメモで確認してください。

  鉞に裂く木の瘤や百舌鳥の声 
          原句「鉞に裂く木ねばしや鵙の声」
  山河控へて筏渡世や秋の晴   
  頂上や殊に野菊の吹かれ居り
  芋の葉の日当たる程に晴れもせず
  山越の松明振りたつる芒かな
  崖なりに路曲る棚田曼珠沙華 
      原句「崖なりに路曲るなり曼珠沙華」

 その新聞の撰者が東天紅という碧梧桐の弟子だったのです。ごらんのように東天紅は石鼎の句を添削して新聞に入選させたのですね。石鼎はそれに怒って抗議の文章を「奈良朝報新聞」に送っています。それがただちに新聞に掲載されるのですが、その文章の場所というのが、新聞の一面にある「奈良朝報」のタイトルの真下の欄です。ですから多くの人の眼にとまる目立った場所です。抗議の文章は添削して載せてくれなくてもいい。というものです。当然奈良朝報は東天紅の反論も載せています。

 何故「奈良朝報」は一投稿者の抗議、それも撰者に反論する文章を載せたのでしょうか。石鼎は「原ひぐらし」の名で頻繁に「奈良朝報」に短歌を投稿していして、知名度がありました。石鼎はその知名度を意識していたと思います。
こうした経緯でわかるかと思いますが、石鼎は「ホトトギス」に投稿する時期にはすでに、自己の俳句認識や俳句論を確立していました。
奈良朝報で「頂上や」他の句が発表されたのは、大正元年十月三十日。「ホトトギス」に発表されたのは同じ年の十二月号。以後、石鼎は「ホトトギス」に拠るわけです。
  
 翌月の「ホトトギス」大正二年一月号では「前号の雑詠に収録した石鼎君の句に就いて所感を陳べて見ようと思ひます」に始まる四ページの虚子の鑑賞文が載りました。
これは私の独断ですが、虚子は奈良朝報の石鼎と東天紅の応酬を読んだのではないかと思います。もともと虚子がその年に雑詠欄を復活させたのは、碧梧桐に対抗することが底流にあったわけです。ですから地方新聞とは言いましても碧梧桐に繋がる情報には敏感だったでしょう。虚子の破格の長い鑑賞分は、石鼎の「ホトトギス」投稿への歓迎でもあったわけです。
次に石鼎の俳句の特徴に入りたいと思います。

 石鼎の全句集の索引には「神」の項目があります。普通索引は季語だけですね。なぜ「神」の索引が特別にあるのかと言いますと、さまざまな人が俳句鑑賞をしているうちに石鼎の詠む「神」の句へ意識を寄せるようになったと思います。中でも早くからそのことを指摘したのが、保田与重郎です。

  水打つて四神に畏る足の跡     大正三年    
  神仏も持たで庵や更衣     大正十一年
 
 この二句目の句などは、神棚や仏壇を身近に暮らしていた日本の風景ですね。

  日輪をめぐる地球になめくぢり    大正四年 
  とんぼうの薄羽鳴らしし虚空かな   大正五年  
  足投げ出せば足我前や春の海     大正七年
  蒲団踏みし夢の巨人の足の跡     大正十年
  余り苗湖のほとりに植ゑにけり    大正十三年

 また、同時期の一句目の「日輪の」句は、非常に壮大な空間で、小さな蛞蝓と日輪が等分の比重で詠まれて独特です。このあたりには神意識が増幅させる石鼎の宇宙感覚が見えてきます。
ところが、昭和六年になって、もっと石鼎の背景にある「神」が輪郭を現してきます。この昭和六年までは、石鼎自身も自分の俳句の背景を意識してはいなかったのではないでしょうか。しかし、その神意識を論理付けるような知らせが、舞い込んできました。それは、「頂上や」を詠んだ場所の「風土の史実」なんです。石鼎はここで、大興奮することになります。

 その史実とはなにかといいますと、吉野が離宮跡であることを検証した人がありまして、それが明文化されたました。そうして「頂上」の句を詠んだ場所が鳥見霊畤(とみのれいじ)、すなわち 神武天皇がまつりごとを行う場所だった、ということがわかりました。現在はその場所に「霊畤」という碑が立っています。
 それから石鼎はどんな行動を起こしたかといいますと、一つは吉野で嘗て詠んだ俳句の一句一句にその句を得た場所を書きこみました。二つ目はその神武天皇の時代に身を置きながら、その時代の言語を用いながら五十句近い句を詠みました。
東吉野で手にするパンフレットには石鼎の俳句を得た場所が書き込まれたものがあります。それなどはまさに昭和六年の鳥見霊畤の知らせを得たときに書き込んだものが役立っているのだとおもいます。
 お手元の資料?の初めの三句はその一部です。

  こや腹(はら)赤(か)淵(わだ)のそこひ(い)に獲もすらし    昭和六年
  みふね谿(だに)白浪たちて秋ぞ來つれ
  弓弦葉(ゆづるは)の御井(みい)は(わ)のしらず秋に来て
 
 ざっと、こんな詠み方で詠んだ四八句を雑誌に載せました。「頂上や」の句を得た場所が天皇のまつりごとを行う場所であったということは、それまで石鼎の中に育まれていた神話の国出雲と吉野が時空で繋がったことになるのです。その興奮を知ることで、いかに石鼎が出雲という郷土に執着を持っていたのかがわかります。
 そうして、振り返りますと「水打つて四神に畏る足の跡 」「神仏も持たで庵や更衣」がより理解されてきます。そうして同時期の作品を見わたしますと、次のような非常に静寂な句が並びます。
  
  春の水岸へ岸へと夕べかな        昭和十年
  青天や白き五瓣の梨の花         昭和十一年
  神棚の燈のふもとなる炬燵かな     昭和十四年
  神々に祈りしをれば夏の靄      昭和十四年

 上田三四二の『この世この生』の中に、西行を地上一寸とすれば、明恵は地上一尺、良寛の足は地に着いている」と言っている個所がありますが、この例えを借りれば石鼎は天上界に心を遊ばせていることになります。要するに、石鼎の意識はいつも神話の出雲と繋がっていたのだと思います。こうしますと、石鼎の詠む作品に神が多いというのも少し理解されてきます。

 そういう石鼎ではありましたが、また精神を病むことになります。石鼎は関東大震災のときの恐怖が何年もぬぐいきれないでいました。このことでもその繊細な神経がわかるかと思います。その病みがちな昭和十五年頃から精神に加えて、身体的にも次々と支障を起こして入退院を繰り返しておりました。それが、パンドポンという痛み止めの中毒に至り、コウ子夫人を困惑させました。
いろいろな経緯から松沢病院に入院させます。この時期の作品は、もうほとんど、自分自身が天空に遊んでいるような句ばかりです。

  天の川かはべにたてば星の海     昭和十五年
  あかね雲西に東に明易き
  金の月へ遠き蝙蝠とんで消ゆ
  土用干し洋(なだ)に珊瑚のもゆるらん

 最初はこのあたりの句を見ましたときには、きっと病院の窓から見える風景が空を仰ぐより他になかったのだろうと思っていました。一句目などはまるで自分が天の川のほとりにいるかのような句ですね。最後の句になりますと、病院から海が見えるわけでもなく、「土用干し」に海の底の風景が結びつけられいるわけですから、非常に自由な発想です。この風景把握にも石鼎の日常を越えた視野を感じます。

 ほかにも「群星にうもれしわれの一人涼し」というように天空を見ている句、あるいは天空に身をおいた句が並びます。そうして天空から足元に目を移せば人恋しかったのかもしれません。

  武蔵野の真夏の草を見にも来よ 
 
などと詠んでいます。
 ところで、現在では総合病院になっていますが、当時の松沢病院といえば、精神病の代名詞になるほど全国的に知られています。そんな病院をなぜ石鼎夫人は選んだのかとちょっと不思議な気がします。と言いますのはこの病院に入院させるコウ子の文章を読みますと、痛み止めのパンドホンの中毒をとることが、家では難しいので医師に無理にお願いした、と書いてあります。しかし、それなら別の病院でもよかったのではないかと思います。わざわざ、世に精神異常者であることを知らしめることはなかったかと思います。

 この昭和十五年あたりは、新興俳句弾圧事件のあった年度と重なります。中でもコウ子が驚いているのは、石鼎が大正四年から勤めていた「ホトトギス」発行所の主筆であった嶋田青峰が拘束されたことです。しかも、その新興俳句弾圧の密告者はかっては石鼎を助けてくれた小野蕪子であることも来客から聞いております。このことがコウ子をことに驚愕させたと思います。
これは私の独断でありますが、コウ子はあえて松沢病院を選んだのではないかと思います。それは、石鼎が純粋無垢な発言で自己を率直に発揮してしまうからです。コウ子は、石鼎の名誉よりも命を選択したのです。
 丁度現在、映画館では『少年H』が上映されていますが、あれはまさにこの昭和十五年頃から終戦にいたる神戸の街の仕立屋一家の話ですね。外国人の客がいるというだけでスパイ嫌疑をかけられて、陰湿な厳しい取り調べを受けています。
同じころ、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園には、自由という学校名は宜しくないと言ってきたそうです。学園では食堂にあった聖書にちなんだ壁画も自発的に塗りつぶしてしまいました。そんな時代ですから、松沢病院へ入れることが石鼎を守ることだったかもしれません。
一年後に退院したのは神奈川県二宮に地でした。その地に移り住んで、また石鼎は心を弾ませることに出会います。 
それが新しく移り住む二宮の地名でした。

神奈川縣相模國中郡吾妻村二宮國府津稲荷谷戸口日吉五八八番地
実際に雑誌「鹿火屋」に表示されている住所は次のような変遷がありました。 
昭和十六年六月号 神奈川県二宮町二宮五八八稲荷谷戸口
昭和十六年十二月号     神奈川県二宮町日吉五八八
昭和十七年十二月号   神奈川県中郡二宮町二宮五八八 
石鼎が見た住所とは古地図、あるいは謄本などの表記だったのかもしれません。この長い地名の吾妻にいたく心を寄せました。何故だかわかりますか。

 吾妻とは、ヤマトタケルノミコトが走水に身を投げたオトタチバナ姫を偲ぶ言葉ですね。文字が小さくて読めないかも知れませんが、お手元の写真の「消息」という文章の中にはこの故事について、記紀の両方を引きながら説明しています。
たったこの二文字の「吾妻」という文字を見つけただけで、石鼎は住んでいる土地が神聖なものに思え、出雲との只ならぬ縁を感じてしまいました。さきほどの、昭和六年の「頂上や」が神話の出雲に繋がるように、二宮の地もまた神話の出雲と時空を同じに出来ることで心弾ませています。この事実からも、改めて石鼎が出雲を執着を持っていたかが分かります。

  神霊こもるここのこの間に風炉の名残  
  神風炉にこつて火の子の一つ散る

 石鼎の二宮の家には玄関の脇に茶室があり、正面に掘りこみの小さな持仏堂があります。「神霊」の句の「ここのこの間に」という畳みこみ方に心の弾みが感じられます。住所表記の中にある吾妻という地名によって、目にするものが尊いものに見えるわけです。その心が神霊こもる、という言葉になり、風炉にも神という一語をつけることになるわけです。

 ここでまた、振り返っていただきたいのですが、昭和六年の興奮は、古語で俳句をつくり、吉野で得た作品に、その得た場所を書き込んだりしました。この二宮での興奮は、自叙傳を書き始めたことです。そうしてさらに神の世界に遊び始めて、自分の名前にも称号のようなものを付け始めました。完全にこの世に居てこの世に居ないのです。これが、石鼎の宇宙感覚につながるものです。

 資料の細長いものですが、石鼎の上にある、碧瑠璃 玲如春が読めるでしょうか。これなどは自らを神としているわけです。当時の軍国主義の時代には天皇が現人神だったわけですから、特高に知られたら大変なことです。
 あまりに、書くことに旺盛になってしまったために、編集部は困り果てたのかもしれません。石鼎に思うまま書かせて、おもうままに発表させながら、実はそれらは一般の鹿火屋の人には見せない形をとりました。

 石鼎だけに見せる「鹿火屋」を作っていたのです。最後の写真の二点はその『石鼎用の鹿火屋』にあるものです。図書館にある「鹿火屋」昭和十六年十月号を開いても、お手元の頁の文章はありません。この二冊の鹿火屋についての詳細は別の機会にしたいと思います。
「吾妻」という地名に触発されて旺盛な文章力を発揮した石鼎ですが、第二次世界大戦がはじまった昭和十八年ごろから俳句を作らなくなりました。この俳句を作らない理由については諸説ありますので、先へ進みます。
 二宮は松沢病院を出た石鼎の隠棲の場として建てられたものです。そのうえ、俳句も作らないわけですから、訪れる人は編集の弟子くらいしか居なかったでしょう。世間と絶縁したような暮らしをしていました。しかも足も悪かったので、外出も思うようには出来ませんでした。
俳句を再び作りはじめたのは昭和二三年です。その年、還暦の記念に郷里出雲に句碑が建ちます。「磯鷲はかならず巌に止まりけり」でした。これを機にまた俳句をぼつぼつ作るようになりました。

  うすうすと大地の苔や石蕗の花     昭和二四年
  朝戸繰りどこも見ず只冬を見し
  寒卵一つ割つたりひびきけり      昭和二五年
  大空と大海の辺に冬籠る        昭和二六年
  松朽ち葉かからぬ五百木無かりけり    絶筆
  秋はあはれ冬はかなしき月の雁    知足寺の句碑

 二句目の「朝戸繰り」などは、昭和十八年からの俳句中断がもたらした句の境地だとおもいます。「どこも見ず」という表現の中に、石鼎の宇宙観が感じられ、また「寒卵一つ割つたりひびきけり」とともに、日常と非日常を貫く透明感があります。
三句目の「大空」の句などは、まるで神話の天上界に浮遊しているようです。
 まさに最晩年の石鼎は神話の世界に住み着いてしまったのではないかと思います。そのために編集部では石鼎のためにだけの雑誌を発行しなければならなかったのです。
 時間になりますので終わらせていただきますが、石鼎は自分の中に抱く自分の世界を大事にしたのだと思います。そうして、そこから増幅される想像力が作品に影響を与えてきたのだと思います。ご清聴ありがとうございました。


講演記録は以下の二回の講演を纏めたもの。 
平成二五年七月二七日 詩歌句協会
平成二五年九月二六日 現代俳句協会神奈川県西部地区大会

花終へて安らけき石蕗の葉なるかな    原石鼎  昭和24年

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 石蕗の花の黄色は目の覚めるような鮮やかさである。かといって石蕗の花の咲いているあたりはどことなくひっそりしていて少しも華やかさはない。
 季節感そのものが石蕗の花のありようなのかもしれない。

〈あたたかき十一月もすみにけり〉という、中村草田男の俳句は、毎年この時期になると本当にそうだなという思いに満たされるものであるが、こんな感慨にふける頃にはきまって石蕗の花がおしまいになる。
 狭庭に下りたってみると果たして、石蕗の花びらはすっかり失せてしまって、蘂と萼ばかりになっていた。
 思えば今日はもう十一月も晦日である。
 嗚呼というがっくり感が、折しも掲句に出会ってはたと見直された。
 黄なる花びらばかりが石蕗の花ではなかった、その葉も茎ももろとも石蕗の花であったのだった。
 あらためて、木蔭に揺れるともなく揺れているその姿が好もしく思われた。

 石蕗の花といえば、まっさきに石鼎の〈地軸より咲きし色なり石蕗の花〉が思い浮かぶ。
 そしてもう一句、「地軸」という発想の大胆さに思い出されるのは、

  地軸ずしと傾き太陽は初日と呼ばれ     原 裕

である。
 これは、昭和26年石鼎が亡くなった直後、養子として迎えられた門弟堀込昇(のち原裕)の17歳(昭和23年)の作品である。
 地軸のせいであろうか、石蕗の花は太陽とセットになって、我が胸中に咲き続けている。
 
 石鼎は昭和24年に、石蕗の花6句を連作している。

  大いなる海の力や石蕗咲ける 
  地軸より咲きし色なり石蕗の花     
  うすうすと大地の苔や石蕗の花    
  地軸よりぬき出て咲けり石蕗の花
  雨に照り日に濡れ石蕗の花崇し
  花終へて安らけき石蕗の葉なるかな

 一句目は、間違えて「石蕗の花」と書き写したのであったが、「石蕗咲ける」であったと知って、この違いの大きさを感じ入った。
「石蕗の花」では「大いなる海の力」はよそ事である。「石蕗咲ける」でもってはじめて石蕗の咲く、ここまでその力が及んでいることを喜ぶのである。
 まるで海の力でもって石蕗の花が開いたかのような輝きをもたらしている。
 大いなる海の力は石鼎の一身にも及んでいるのであろう、気が張っていなければ「石蕗の花」で片づけてしまったかもしれない。
「石蕗咲ける」にしてはじめて、海の力に力負けしていない石蕗の花が立ちあがる。
 だからこそ「地軸より咲きし色なり」が引き出されもするのである。

 原裕の地軸は、地球自転の少し傾いている回転軸のことであろうが、石鼎の地軸は大地を支える軸という解釈で成り立つだろう。
 ゆるぎなきエネルギーが突き出してそれがそのまま石蕗の花の色に乗り移った。
「地軸よりぬき出て咲けり」は「地軸より咲きし色なり」の鮮烈に比して、一見見劣りするように思われるかもしれないが、なかなかに渋い味わいが感じられる。
 一か月以上も咲き続ける石蕗の花の茎は強そうに見えて、案外ふらふらとしているものである。抜き出て咲いた余韻のようなもの、一呼吸いれたような感じがよく出ている。
 
 石蕗の花の咲くところには、必ずといってもいいぐらい、「うすうすと大地の苔」がはびこっていそうである。
 石蕗の咲くころの、小春日和の感覚があまねくゆきわたっている。
 
「雨に照り日に濡れ」には、また驚かされる。
「雨に濡れ日に照り」が常識であろうが、石鼎はそんな常識を覆している。
 こう言われてみると、「そういえばそうであった」と疑いもなく合点させられるのは私だけではないだろう。
 下五の抑えは「石蕗の花崇(たか)し」である。
 この花の静けさや安らぎは一体どこからくるのであろうか。
 石鼎は空を仰いで、石蕗の花を石蕗の花のかたちにしている、大いなる命のありように思いをめぐらしているのではないだろうか。
 淡々とありながら、その芯の強さにうたれているからこその念押しであろう。

 細部にこだわってしまったが、これらの句はいずれも、テクニックの問題ではない。
 ものに対する思いの深さや愛情がなければ真似の出来るものではないだろう。

 掲句にもどるが、石蕗の花は終わっても、なお艶やかにある葉の緑にまなざしを注いでやまない、お疲れさまでしたとでもいうような微笑みがただよっている。
 石鼎の句に、石鼎の心が入らない句は一つとしてない。
 石鼎の俳句を読んで学ぶところは、一にも二にもここのところである。

     (草深昌子=晨)

大雲も小雲もあゆむ年のくれ    原石鼎   大正10年

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 何ということもなく通り過ぎてゆきそうな句である。
 だが、このゆったりとした呼吸がなぜか年の暮の側面をもっとも明瞭に見せてくれているように思える。
 大雲とか小雲とか、子供が見上げているような物言いもさることながら、一句全体の抑揚もどこか世間離れしていて、のどかな年の暮の様相。
 雲が流れるでも、雲が浮くでもなく、「あゆむ」ところが石鼎ならではの、まるで雲に命を託したかのような捉え方である。
 物と我との二元対立はここにはない。

 真っ青な空にある片々の雲は、石鼎の歩みのままについてくる。
 気分は上々である。やがて雲はちぎれて、うすく引き伸ばされて、夕日に染まりつつ失せてしまうであろう。この天空がいつまでもどこまでも同じ状態ではありえない。どことなく空漠たる思いも漂いはじめるのではないだろうか。
 こうした宇宙の現れの一つを見届け、季節の巡りそのままに地上も暮れてゆくという、是も非もない年の流れを肯定的に認識している感覚はやはり平凡ではない。

 原石鼎全句集には、掲句の続きに以下の句が並んでいる。

   大年の日のさしてゐる小草かな     大正10年
   大年の夜の大霧となりにけり        〃
   大年を掃かれて起きる小草かな       〃

ここにも、「大」と「小」が小気味よく配合されている。

 この年大正10年、石鼎は35歳にして、「鹿火屋」を創刊した。
 以来30年、「鹿火屋」30周年を迎えた昭和26年の年の暮に、石鼎は死去した。

    大空と大海の辺に冬籠る        昭和26年

 もう、外出は叶わなかった。   
                             (草深昌子=晨)

石鼎と出会った俳人・小野蕪子(1)

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 iPadにダウンロードした青空文庫の中に小野賢一郎の文章があった。『やきもの読本(宝雲舎、1938年)』というものだ。なぜその名前に興味を持ったかといえば小野賢一郎とは小野蕪子の本名だからである。

 一書はやきものに関する入門書のようなものなのかもしれない。パラパラ頁を繰ると「やきものの歴史」・「やきものの見方」・「土瓶の蓋」・「糸切」などという項目が現れるからである。その他にも『陶器大辞典』・『陶器全集』などの編著があるので陶器についての見識を持っているのであろう。

 ――小野蕪子(本名 賢一郎)。明治二十一(1888)年福岡県生れ。「朝鮮日報」「東京日日新聞」の記者・NHK文芸部長などをつとめる。大正七年俳誌「草汁」創刊し、それを後に石鼎に譲る。昭和四年に「鶏頭陣」を主宰。句集『雲煙供養』など。昭和十八(1943)年没。――

 小野蕪子と言えば、大方の人は俳句弾圧事件(京大俳句事件)の黒幕として、あるいはその密告者として認識する名前である。だが、「鹿火屋」の内側から辿る小野蕪子は石鼎を庇護してきた恩人という印象で捉えられる。

 石鼎が小野蕪子と出会ったのは、大正四年のホトトギスに入社して間もない頃である。東京日日新聞の社内では、石鼎の上京を待っていたかのように無名吟社という句会が立ち上がった。そこに松内黙人・池松迂港・大久保鵬鳴等の幹部級の一人として小野蕪子もいた。

 それから三年後の大正六年末に、虚子は俳句では食べていけないから新聞社でも紹介してやろうと「ホトトギス」の退社を促したのである。勉強さえすれば俳句で食べていけるからという虚子のことばを金言として励んできた石鼎には青天の霹靂だった。この事項は石鼎晩年に至るまで癒えない傷になっていた。

 「ホトトギス」退社を言い渡すときに、虚子は就職を紹介すると申し出たが、石鼎はそれを振り切って「ホトトギス」発行所を去った。そうした状況に手を貸したのは、小野蕪子を含む無名吟社の人たちだった。
 
 まず東京日日新聞への入社、同時に大阪毎日新聞社主催の句会選者、句会指導の依頼などがあった。同時期、小野蕪子は俳誌「草汁」を創刊した。その創刊時から「やがて君が主宰するようになろうから」と、石鼎に雑詠選を任せていたのである。

  一方「ホトトギス」退社後に、石鼎に指導を受けはじめた大阪句会の財界人たちからも雑誌を作る声が高まった。メンバーは大阪毎日新聞社を経て「昭和日日新聞」を創刊した相島虚吼、藤田家の大番頭である清水冬嶺、病院院主の西浦泉水など強力な支援者ばかりであった。

 この大阪の大物たちの応援は、それまで雑詠選をしていた「草汁」の譲渡を申し入れる弾みを与えてくれた。のちに石鼎夫婦は「鹿火屋はまるで大阪から誕生したようだ」と話し合った。こうした経緯を経て「草汁」二七号から「鹿火屋」と改題して石鼎主宰の雑誌となった。大正十年のことである。  

  (岩淵喜代子)

中空に渦巻きもして春の雪     原石鼎     昭和9年

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 2月8日、日本列島は記録的な大雪となった。
  首都圏で積雪20センチ越は20年ぶりとか。積雪はともかく暴風も吹き荒れた。
  春の雪といえば即ち淡雪であり、消えやすい解けやすいというイメージであるが、それらを全部覆すような雪であった。
 もっともこれは雪国に住まないものの印象であり、あるいは又俳人独特の思い込みに過ぎないともいえよう。
 自然のすべては想定外にあるということを改めて実感させられるものであった。

 そこで石鼎の「春の雪」の句を繙いたところ、この度の大雪に似通った、かなり激しい雪を想像させる掲句に出会った。
 「中空に」と先づ読者の眼を中天に引き寄せながら、「渦巻きもして」とその目まぐるしさをあきらかに見せる。
 さりげなくも巧いのは「もして」である。読者はおのずから、より広やかな空間一面に不規則に降りしきる春雪を重層的に鮮やかに思い浮かべることになる。

  淡雪に忽ちぬれし大地かな      大正7年

  いちさきにつもる枝見よ春の雪      昭和6年

  青空をしばしこぼれぬ春の雪      昭和8年

 「忽ちぬれし」「いちさきにつもる」「しばしこぼれぬ」のスピード感、ここには降りつつ解けていくような雪を手づかみにしようとする心弾みがあり、同時にはかなさをすでに我がものとしているようでもある。
 何よりその美しさを少しもよごさないで、そのまま読者の胸にふわっと着地するような透明感は、春の雪以外の何物でもないと驚かされる。

  縫ふものに尺八(たけ)の袋や春の雪      昭和10年

  鯉を画き水をゑがくや春の雪            〃

 こちらは、時間的にはゆったりと春の雪を味わっている句である。
 「縫ふものに」という出だしは、意図的に選び出した尺八の袋であって、単なる縫い物ではありませんよという、春雪への心の寄せ方が中七で自ら盛りあがってくるところが一味違う。
 鯉を画くだけでも一句になりそうだが、加えて水も描くということによって、水気の多い雪片を印象させている。鯉は「画き」、水は「ゑがく」という表記もよく計算されていて、濃淡や滲み具合の違いを思わせる。
 かにかく、水中の鯉をより鮮明にしながら、春の雪のさまが、まるでその画のようであるとも錯覚させられるのである。

  降りやまんとして卍する春の雪      昭和12年

 一読して卍という字のままに、くるくると追いかけるように乱れ、かつ絡み合っているという雪の止みぎわの華やかさが面白い。
 ところで、「卍」は寺院の記号や紋章であるが、本来はインドのビシュヌ神の胸の旋毛を起源とする瑞兆の印だという。そういえば「卍する」という発想は石鼎独特のもので、その下地には、神のごとき日の綾を織り込んでいるようにも思われれる。

 この年、昭和12年にようやく石鼎は初めての句集『花影』を出版した。
 「おくがき」によると、石鼎は、16歳ぐらいから俳句をはじめたものの自分の句を記載しておく等とは思いもよらぬことで、大方は忘れた。大正8年頃から書きとめるようになったものの、そのうち12年分の手帖を落失した。それで2万に近い句も今手許に明記されているだけのもので、そこから千句を選出した。
 それがこの『花影』であるという。

 卍する春の雪は、まさに2万句という膨大なるさまの句が漸くここに一巻となって結ばれるという様相そのものを指し示すように思われる。
 卍するなかで、振り落されんとする20000句が眩しくもせめぎ合っているのである。
 ともあれ、幸運のシンボルとしての卍、すなわち『花影』一巻がめでたく上梓されたのである。

   (草深昌子=晨)

一点の雲なき空や梅は散る    原石鼎     昭和26年

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「一点の雲なき空」は、真っ青な空かもしれない、あるいは早春にありがちな霞のかかった空かもしれない。だが、どこまでも晴れわたった一枚の大空であることは確かである。
 こんな穢れなき空をバックに、散りゆくものは何の花でもよさそうだが、やはり梅の花に如くものはないように思われるのも、「一点の」措辞が、梅の花に作用して、その花びらをこまやかに散らつかせるからであろう。

 昭和26年、原石鼎全句集には、掲句をはさんで梅の花の句が十数句並んでいる。

   手紙書く墨をすりけり梅盛り       昭和26年
   日に月に風雨のあとの梅は白し        〃
   大暴風雨のあとにも浮きて梅の花       〃
   雨音も風音も止み梅浄し           〃
   一点の雲なき空や梅は散る          〃
   碧空や散り居る梅の花に風          〃
   碧空や梅の落英見えて居る          〃
   梅の花雪降る如く吹かれ散り         〃
   石蕗の葉のどの葉にも梅の落花かな      〃
   けふも鶯散りつくしたる梅が枝に       〃
   散り尽す梅の中なる星の数          〃

 先ごろ、時ならぬ大雪や大雨を経験したせいで、これらの句々には大いに共鳴させられる。
 梅の花の散りゆくのは惜しまれるが、ことに暴風雨に耐えた梅の花であればひとしおなのである。夜となく昼となく仰ぎ見て、ことごとく俳句にのせずにはおれなかったのだろう。

  早梅や眼にもなれつる山容         大正2年
  藪蔭に大肥溜や梅の花           大正6年
  灯りて二軒親しや梅の中          大正12年
  日当りし梅の太枝を潜りけり        大正13年
  紅梅に照り沈む日の大いなる        昭和16年
  大木と見えてさながら畑の梅        昭和24年

 梅の花は、全句集に40句ほど見出されるが、どれも皆ばっちりと咲いている。
 梅の花はなべて、石鼎にとって頼もしい存在であったようである。
 その落英に触れたのは最晩年の昭和26年だけである。

 先日NHKテレビで、影絵作家藤城清治の創作現場のドキュメントを見た。
 89歳の今だから描けるという覚悟でもって、宮沢賢治の「風の又三郎」に向き合う日々、完成のあかつきに感極まって泣かれていた。
 今までにない自分に出会った感激であろうか、汲めども尽きぬ創作熱である。

 思えば、石鼎の作家魂もおとろえることはなかったのだった。
 文字通り風雪に耐えた梅の花の散りゆく姿は、愛惜する石鼎の気持がそのまま、静かなる詩情となって、それこそ一点の曇りもなく描かれているのではないだろうか。
 若き日の格調の高さとはまた別種の趣である。

 写生の道を究めれば、最後には「いのち」が写し出されるというあたりのことが、おぼろげにわかってきたような気がする。

   (草深昌子=晨)

春雷や草に沈める松落葉    原石鼎  大正7年

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 雷は夏に多く、夏の季語である。
 では春の雷とはどんなものであろうか。

 藤田湘子の一句をもって、大岡信が春雷を鑑賞しているのでここに揚げさせていただく。

  掌中に乳房あるごと春雷す      藤田湘子

 春雷は夏の雷と違って鳴っても長くは続かない。その淡々しさに春らしさがあるが、しかし春ののどかさを一瞬破るその音には心のうちに眠っているものを呼びさまされるような驚きも感じられる。この句も、春雷が人の内側にひそむ思いにふれてくる、その機微をとらえて詠んだものといえよう。
「掌中に乳房あるごと」で切って読むべき句である。
 掌の中に乳房をそっとのせていつくしんでいるような思いを抱いている春の午後、その感触をさながら言い当てるかのように、春雷が鳴って過ぎたのである。(大岡信)

「心のうちに眠っているものを呼びさまされるような驚き」にはさすがと唸らされる。
 さて、湘子の句から一変して、石鼎の春雷は如何であろうか。
「草に沈める松落葉」、ただこれだけの叙景句である。この堂々たる自然詠のありようの穢れのなさはどうであろうか。
 これほどにも俳句は違うものかと一瞬思ってしまう。

 だが、待てよと思う。
 草に沈んでひそやかにある松落葉にはどこやらうごめいているような、人なつかしい気色を感じてならない。
 叙景にひそんでいる隠喩が曰く言い難く伝わってくるのである。
 そこで、湘子の思いにたちかえってみて、はたと膝をうった。

 湘子は石鼎の句を長い間心の内に抱いていたのではないだろうか。
 そして、とある日、春雷に出会った、まさに心の内に眠ってあったものが呼び覚まされたのである。

 直感的に、湘子そのひとは松落葉のこころもちに成りきってしまったのではないだろうか。
 掌中にある乳房は、まるで草に沈める松落葉ではないか。
 そう思うと石鼎の句と湘子の句は全く異質に見えて、同質のものであると気付かされる。
 つまりは大正時代も昭和時代も変わりなき春雷の情というものを文字通り、わが掌中にして詠いあげているのである。
 一見大いに違っても、その通底するところでは等しい。いいかえれば、自然が作者をして詠わしめてあることで、同じものでないわけはないのである。
 ただそこに表現の方法という時代性が加味されてくるのであろう。

 これから先の世も春雷は淡々しくも鳴り続けることだろう、そしてその時々に、未来人は如何にこの轟きを受け止めるのであろうか。
 人生はただ100年であることが惜しい、だがこの春雷のうちにも、石鼎は生き、湘子は生きている。
 俳句の恩恵を思はずにはいられない。

(晨=草深昌子)

昭和初期の振替用紙

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昭和3年の「鹿火屋」を開いていたら、パラリと落ちてきたのが当時の四枚つづりの振替用紙。原 鼎とは本名なのである。

上の拡大写真でははっきり本村町の住所も読み取れる。この本村町とは石鼎が昭和2年7月に龍土町の小さな貸家から移った場所。ついでに言えば大正時代が15年12月25日までだったので、昭和元年は一週間ほどしかなかった。だから昭和2年7月とは昭和という時代がはじまったばかりだったのである。



ちなみに、当時の誌代は

1冊     46銭
半年分   2圓60銭
1年分    5圓20銭
海外1年分  6圓 

六月や白雲色を磨ぎすまし     原石鼎   大正10年

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   高々と咲いて白さや杜若
   六月や白雲色を磨ぎすまし
   紫陽花の白とは云へど移る色
 大正10年、原石鼎全句集に肩を寄せあっている3句であるが、いずれも白がキーワードである。

 6月と言えば、水辺に野山に緑はいよいよ滴るばかり。そんな中にあって、抽きん出て咲く杜若のみずみずしさ。
 四季の循環のなかで折々消えては現るる雲々のありよう、わけても六月を迎えたこの頃の雲は、目の覚めるような白さである。そんな白さを仰ぎ見ると、少々の鬱屈した気分なんぞ一掃されてしまうのである。
 片や、白に端を発して、これからの梅雨時に七変化してゆくであろう紫陽花の色彩への思わくも楽しい。
 6月は古名では「水無月」と言われるが、むしろ豊かな水をイメージする6月にあって、三句三様の白はいきいきとしている。

 石鼎の句に「白」が多いことは、一句鑑賞を書き始めて以来気付かされていることであるが、未だにその白についての考察を徹底しないまま打ち過ぎていることをまたしても反省させられる白である。
 それにしても、「白雲色を磨ぎすまし」という文字通り鋭敏なる白の受け止めようには驚かされる。画才ある石鼎の、絵肌の清々しさが引き立っている。
 だが、何より「六月や」という上五の置き方には、脂の乗り切った俳人ならではの大胆なる詩的感性が決まっている。

 ここで思い浮かぶのは、

   六月を綺麗な風の吹くことよ    正岡子規

である。
 日清戦争従軍の帰国途上で喀血し、須磨の病院に担ぎ込まれた子規が、九死に一生を得た折の、安堵にあふれた句である。

 かにかく、俳句というものが、幸不幸を問わず、作者の心のありようを無意識に反映するものであることを思い知らされる時、石鼎のこの磨ぎすまされた白雲は、気合のかかった石鼎の精神そのもののように感じられてならない。

 石鼎はこの年、大正10年5月、虚子の許しを得て「鹿火屋」の主宰におさまった。
 35歳の若さであった。

  (草深昌子=晨)

創刊千号

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   「玉藻」千号記念祝賀会が行われた。招待客と会員の合計が500人を越えているらしい。最前列のテーブルだけで12テーブルあったから、おおよその広さというものも想像できると思う。

この「玉藻」が創刊されたのは昭和5年だった。石鼎の「鹿火屋」が創刊されたのは大正10年だ。当然、とっくに千号記念祝賀会は終わっている。その記念企画として「石鼎窟夜話」が刊行されたのだ。玉藻祝賀会の席上に居て思い出されたのが昭和19年の雑誌統制令の施行である。

昭和19年3月、市川一男は神奈川県庁特高課へよばれた。そこで3月限りで文芸雑誌は「国策に従い廃刊致し候」という印刷紙に署名して提出するようにという命令を受けたという。そのとき、思い出したように県下で短歌と俳句の雑誌を一誌だけ残すから相談してくるようにと言われた。

その報告を聞いたコウ子は神奈川には星野立子の「玉藻」があるから「鹿火屋」は駄目だと悲観していた。しかし、その後、文学報告会俳句部会により残されたのは、ホトトギス・鹿火屋・若葉・馬酔木・寒雷・渋柿・曲水・獺祭・石楠・雲母・海紅・層雲・水明・木太刀・徂く春の15誌(市川一男 俳句百年別冊4)だった。



母親から息子へという関係はどちらにとっても一番いい関係である。「玉藻」新主宰 星野高士氏はそうした意味でも幸せに育てられた俳人である。その上、戦禍も知らない世代である。思いっ切り羽ばたくことを願っている。

  月明の畳にうすき団扇かな     原石鼎    昭和3年

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 先日、梅雨の満月の頃、二階へあがると畳に月の光がうっすらとさしていた。
 この鬱陶しい時期に何と美しい明るさであろうか、しばしうっとりしていると、はたして石鼎の句が思い出された。
 風の嫌いな私には、クーラーや扇風機はもとより、扇子や団扇の風さえも、時にうとましく感じられるのだが、石鼎のこの団扇ほど手に取ってみたいものはない。
 団扇といえば、黒田清輝の「湖畔」に描かれた女性の持つ団扇が、涼しき色香を漂わせて傑作であるが、掲句もまた、一幅の絵になり映画のラストシーンになりそうな奥行きを漂わせている。

 団扇と扇子は共に涼をとるためのものであるが、

   扇子置き団扇を持ちてくつろげる     岸本尚毅

 この句の通り、扇子は高尚にして外出用、団扇は庶民的にして家庭用といえるだろうか。いかに世が進んでも、祭など夏の風物詩に欠かせないところは共通している。
 ちなみに、掲句が「月明の畳にうすき扇子かな」ではサマにならない。
 団扇だからこそ新しいのである。

 そういえば、原石鼎全句集には、掲句の隣に、

   名月の畳にうすき団扇かな     石鼎

が並んでいるが、これも名月では印象がかたまってしまって、ふわっと団扇が浮きたたない。「月明の」が絶妙である。
 この切り出しは、石鼎のおはこのようで、

   月明の障子のうちに昔在     石鼎   昭和4年

 団扇にかぶさってくる人の世の詩情もうかがわれるものである。

 参考までに、

   ほろほろと雨つぶかかる日傘かな     石鼎    昭和4年
   ほろほろと雨のふり来し日傘かな      〃      〃

   美しき風鈴一つ売れにけり     石鼎    昭和4年
   美しき風鈴道に売れにけり      〃      〃


 原石鼎全句集にはかくのごとく、同様の句が並んで掲載されている。
 だが、原石鼎『花影』に採用されているのは、どちらも前句の方である。
 状況の説明をすると俳句はツブシになることが一目瞭然。真実のリアリティーとはこういうことであろう。
 石鼎ほどの俳人にしても、先づは書きあげてみるという手順があったのだと思うと、名句の生れる現場に立ち会えたような楽しさが味わえる。

(草深昌子=晨)

朝かげにたつや花野の濃きところ    原石鼎   昭和4年 

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 「花野」は、花の咲いている秋の野辺であるが、「ハナノ」という語感がすでに浮きあがっていて、どこかロマンチックである。
 花野を行くと、ふとここに佇んでいたいと思うのは、虫の音に象徴されるように、一抹のさびしさを覚えるからであろうか。
 
 掲句も又、透き通るような朝日が粲粲とさすところに立ち止まっている。あたかも、その人までもが一輪の野の花のごとく、静けさに立っているのである。
 桔梗であろうか、吾亦紅であろうか、女郎花であろうか、萩であろうか、ここには朝日子と渾然一体となって、その色をいっそう鮮やかに見せてくれるものがある。

 「朝かげ」という古風が、「濃きところ」にぴたりと着地するような焦点のしぼり方で決まっている。
 意味的には「朝かげにたつや」と8音がきて、次に「花野の濃きところ」と9音となるが、俳句的に575のリズムで読もうとする心が先にあって、ごく自然に「朝かげに」「たつや花野の」「濃きところ」と読まれる。
 頭の中にめぐらされる、二つの音調がまじりあって、花野の音楽的明るさと淋しさを同時に醸し出している。

 昭和4年の石鼎は、麻布本村町に住んでいた。
 この麻布本村町の家の隣に引越してきたのが、当時9歳であった、須賀敦子(翻訳家・エッセイスト)であった。
 その著、『遠い朝の本たち』の中でこう記している。

 ――隣家の住民を私が意識するようになったのは、東京に来て何年目ぐらいのころだったのか。秋が深くなったある日、その家の主人らしい小柄な和服姿の老人が、手入れの行きとどいた庭にひとりぽつんと立って空を見あげているのが、二階の窓から、私の目にとまった。小柄でどこか気むずかしそうなその老人が原石鼎という、かなり名の知れた俳人だと教えてくれたのは、父だった――

 須賀敦子の目に映った石鼎、そう文学少女の感性に記憶された気むずかしそうなお爺さんこそは、まさに「花野の濃きところ」に佇んでいた、その人ではなかっただろうか。
 病身の孤独な俳人にとって、手入れの行き届いたわが庭こそが、どこの花野よりもかけがえのない花野であったのだった。

(草深昌子=晨)

 小野蕪子  ?

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 大正九年九月に龍土町の隣家を借りて、雑誌発行所の受け入れ態勢をさらにアピールしたことで、ようやく譲渡の承諾を得た石鼎主宰の「草汁」二五号には、次のような蕪子の言葉がある。

  まさしくあれ
             小野蕪子
草汁よ。
まさしくあれ。お前は今お嫁にゆくのだ
私は何の不安も焦慮もなくお前の首途を
送る。別れの言辭は多くの親が多くの子
を嫁がする時にいふ月並な言葉と少しも
かはらぬ、月並みな言葉――それが真實
であつて永劫かはらぬ人の情けである。
まさしくあれ。短い言葉に無限の情をこ
めてお前を送る。

 二二号の「草汁の命」、そして二三号には「近事雑事」として、ーー前号に書いた通りーーという書き出しで雑誌発刊の費用の膨大なこと、雑誌への期待感などを述べて「譲渡した」という一事を印象付けていた。筆立學舎で一晩に十編の文章を書かせられるような教育を受け、新聞小説も矢継ぎ早に発表した人物とは思えない歯切れが悪く、女性的な文章である。

 そのことは大正十年一月発行の「草汁」二五号の巻末の「みなさまへ」と書き出した中にもある。――いい時期がきたので雑誌のすべてを石鼎氏に差し出します。――と書きながら、此の雑誌の関係は全然切れたわけではない。それは嫁いだ娘の身を案じる親心である、というような湿度の高いものだ。困ったときには何時でも救助の手を差し伸べる、とも受け取れる。

 原石鼎の主宰誌になった二五号の奥付は確かに発行編集が石鼎に代わっていた。しかし、少しも石鼎が主宰という印象を受けるものではなかった。一ページ目の近詠は鬼城の作品が占め、次の頁から雑詠が並んで、鬼城選のような印象を与えた。石鼎のそれは、裏表紙に「句屑」と題されて五句の掲載だった。やはり、面映ゆさがさせたのだろう。

 天(あま)の日と我とまつはる枯野哉   石鼎「草汁」二十五号
 佝僂に遇ひし心おかしみ枯野の陽
 氷上や雲茜して暮れまどふ
 氷上や我口笛の哀しくて
 日の子われ日の下(もと)にして玉霰

 作品は石鼎独特の玲瓏とした切れのよさもない。不調なのは、この年ホトトギスに一回の投句を見るのみであることにも伺われる。
 石鼎の譲渡表明は消息欄に「別項蕪子氏の文章にある如く潔く私に呉れました。」という短文によってようやく成されていた。

 次の二六号で、はじめて石鼎の巻頭エッセイ二編のあとに石鼎選の雑詠欄も目にすることが出来た。消息欄には「草汁」と二、三の関係していた雑誌を 合併して「鹿火屋」に改題することを発表して、原石鼎の主宰誌としての形が整った。

 石鼎も雑誌を主宰するという意気込みの漲っていたのであろう。「子規のものを始(ママ)めて読む」と「石鼎窟夜話」の二つの連載が始まった。当然、小野蕪子にも重鎮としての詠題の選者や句会の指導者としての座があり、文章の執筆も毎号欠かさなかった。

 当時の蕪子の交流は広く、後に昭和天皇の皇后になる良子女王の居る久邇宮家へも出入りしていた。鹿火屋誌大正十二年六月号には「良子女王殿下」と題する蕪子の見開きページの文章がある。――ある日、ある時久邇宮邸伺候すーーと始った短文は、後の昭和天皇の后の日常を書き留めていた。その久邇宮家に献上するので「鹿火屋」を揃えてくれないかというので、石鼎が蕪子の家に届けたことがある。この一事にも、蕪子と石鼎の関係が師弟というものから遠いことが伺われる。

 蕪子は石鼎の俳句の才能は認めていたが、その愚鈍さには歯がゆさを感じていた。前述したように、せっかく新聞社の正式社員になれるチャンスも逸したし、選句も遅かった。蕪子には鈍重で、貧乏俳人石鼎が雑誌を維持し続けることが出来るのか危ぶむ気持ちがあったようだ。
 
 この石鼎への危惧とは、見方を変えれば小野蕪子の雑誌へのこだわりだったとも言える。「草汁」を発行し始めたとき、確かに「いずれは君が主宰するようになるだろうから」と、いかにも石鼎のために発行したような印象を与えたが、蕪子自身の雑誌の主宰者への願望も内在していたのである。
それはその後の「鶏頭陣」主宰になる経緯に顕れている。

 「草汁」を石鼎に譲渡して数年後、創刊したばかりの「虎杖」から近詠の依頼があった。そこには「鹿火屋」の雑誌で目にしていた鼠石や旧知の秋外城がいたことで、蕪子は早速祝句を贈った。

 若鷹の嶺々をのり切るあられかな   小野蕪子

 その後の昭和二年には、蕪子は「虎杖」から雑詠選者の依頼を受けたのだ。
 同じ年に石鼎は、龍土町から本村町へ移転した。その年の十一月には、「鹿火屋」百号記念俳句大会を芝増上寺で開催し百五十名を超す会員が集まった。これは、大正十二年の関東大震災の後遺症が思わしくなく再起の危ぶまれたことを振り返れば、鹿火屋人には望外の喜びである。

 その百号記念号「鹿火屋」誌を開くと、「思い出すことなど」と付された特集に古参の弟子の筆頭として小野蕪子が筆を取っていた。蕪子は石鼎上京後の大正四年、毎日新聞の社内の句会から始まった雑誌「鶏頭陣」、それから「鹿火屋」の前身である「草汁」についての譲渡経緯に筆を取っていた。それによると、結局「鶏頭陣」は三号で潰れたが、そのとき石鼎は虚子先生に貰った雑誌名をこのまま失くすのは惜しいから、いつか「鶏頭陣」の名で私が雑誌を出します、と言った。

 その言葉があったことで、後に蕪子は雑誌を持った時に「鶏頭陣」を使うことは憚られて「草汁」にしたのだという。だが草汁を譲り受けた石鼎は「鶏頭陣」の名を使わなかったのである。大正七年の突然の「ホトトギス」退社勧告による虚子との軋轢がシコリになっていたからだろう。そこで蕪子は、「虎杖」の主宰を引き受けるにあたり、石鼎に「鶏頭陣」の雑誌名を使わせてもらう承諾を申し出た。

 昭和八年をもって蕪子の「鶏頭陣」も創刊百号記念号を迎えた。雑詠収録句数一九二六句、登録人数四五〇名となった。会員のなかには、太田耳動子・加藤しげる・亀井鳴瀬・永田更衣・昼間槐秋などの「鹿火屋」の重鎮も多数連なっていた。そのほかに、「鹿火屋」創刊時代に連なっていた水原秋櫻子・高野素十、そして三橋鷹女の名前もあった。病弱な石鼎が句会を休みがちだった背景が反映していたのである。

 昭和八年は、「それでも鹿火屋」にも明るい話題があった。一月二日、弾初めの宮城道雄の筝に乗せて、石鼎作詞の勅題「朝(あした)の海」がラジオから流れたのだ。

 宮城道雄が、その詩の作曲を完成させたのは年末も大晦日だった。曲が出来たので聴きに来てくれという電話で、石鼎夫妻は元旦に牛込の道雄宅を訪れている。現在の東京都新宿区中町の宮城道雄記念館である。

 あれすさぶ日ありとも
 波治まれる朝の海の如くなし
 春にあれ夏にあれそは永劫(とこしえ)に
 秋もさらなり冬はさらでも

 日のこころ月のこころと ときはかきはに
 八十島かけてくがをまもれる

 詩は初めの四行が演奏の前に唄われ、演奏の後に後の二行がうたわれた。石鼎は、正月二日には必ず宮城道雄の筝曲を聴くようにと誰彼へとなく触れ回った。自らも、放送のある二日の朝には、ラジオの前に正座して待っていた。それにも拘わらず、年賀に訪れた伊藤秀翠はすっかり箏の演奏のことを忘れてしまい、石鼎を怒らせている。

 その一月号は当然「朝の海」の詩が掲載された。さらに、二月号では、「批判二つ」「月見」「向日葵」「篠の子」「冬」「實りの秋」「アダリアン」「音(おん)のささやぎ」「あやかりの歌」と矢継ぎ早の詩の発表があった。やはり勅題の作詞による高揚が書かせたのであろう。

 同じ年の四月に、第四回の俳画展がホトトギス発行所と同じ丸ビルで開催された。このとき、石鼎は市川一男に促されて、しぶしぶ「ホトトギス」発行所へ挨拶に行った。退社以来、十年振りの訪問だった。手土産として会場に出品してあった一幅の画を持参した。

 ――ドアを開けると事務所にいた女の人が頭をあげ、さもおどろいたという風で『あらッ石鼎さんッ』と声をあげた。星野立子女子であった。奥にある虚子のテーブルの前に案内されたので、私が一おう来意をのべると、石鼎は低い声で、描きためた画を集めて展覧会を開いているから、おひまがあったらごらんねがいたい、という意味のことを述べた。

 虚子は『そうですか』とおうようにうなずいた。そして石鼎の病気のことをたずねた。石鼎は、おかげでだんだんよいようです、と答えたが、たずねる方も答える方もおざなりで、ひどく他人行儀の気がした。それで私が石鼎に、それではこれで失礼しましょうと目くばせすると、虚子はふと気がついたように、田中王城が来ているから逢っていったらどうです、と言った。立子女史に案内された隣の部屋には能舞台があって、そこに紺の背広を着たやせた王城氏と、首が異常に太い本田あふひ女史がいた。あふひ女史は、男のようながらがら声で、しきりに昔ばなしをしたが、私に向かって、石鼎さんはホトトギス発行所では『無用の長物』といわれていたのよ、などとおどけて話した。石鼎は古なじみの人のじょうだんに応ずることもせず、ただ当惑したように苦笑していた。私たちはやっときっかけをつくって立ち上がったが、下りのエレベーターのなかで、私はなぜか石鼎の首っ玉にかじりついて思い切り泣きたいような衝動にかられた。(市川一男著『メビウスの帯』)

 石鼎が絵を書き始めたのは学生の頃からで、同人誌の挿絵などにその才を見せ、「ホトトギス」明治四二年六月号には三枚の挿絵が採用されている。父親に一度は、美術の道へ進みたいと申し出たこともあった。

 しかし、東京に出てきてからは時間的に絵筆を持つ余裕がなかった。書き始めたのは、龍土町の石鼎の家を訪問した内藤鳴雪を写生した挿画を書いたのがきっかけだとコウ子は書いている。その絵は創刊間もない「鹿火屋」大正十年六月号には、「七十五鳴雪翁」と題されて掲載されている筈なのだが、残念ながらこの号が図書館にないので、また目にしていない。

 「鹿火屋」創刊から始まった石鼎の俳画展は数年ごとに、昭和十年までに八回ほど開催されている。これは小野蕪子をなぞっていたのである。蕪子は「草汁」の費用を、自身の短冊頒布会によって得ていたのを石鼎は身近に見ていた。蕪子との雑誌譲渡の話し合いの中で、石鼎が「雑誌というものはお金がかかるものなんですね。」と呟いたとき、すでに俳画頒布の構想は出来ていたのだ。

 この絵を描く時間を得るためには、眠る時間を減らすしかなかった。その無理は、石鼎のみならずコウ子の健康にも影響を及ぼした。とうとう、それまで毎月出張していた大阪毎日新聞の句会指導を年四回に減らしたのである。
 
 蕪子は「鶏頭陣」の主宰に専念し始めたころから、自分の雑誌を軸に活動しはじめ、石鼎とは自ずと疎遠になっていた。鷹女が「鹿火屋」を離れて小野蕪子の「鶏頭陣」に拠ったのと同時期の昭和十一年ごろである。蕪子は最後まで石鼎の庇護者という位置ではなかったかと思う。だが、俳句は石鼎の初期の吉野の作風に通うものがある。

 相すれて鳥の音になく枯木かな   蕪子 
 温泉の窓に降り込む粉雪あきらけし
 十能の火種まづ見え枯木より
 声ありてやがて下駄見ゆ枯木かな
 ほのぼのと襖の骨や初日影
 雑煮鍋提げて枯木を潜り来し
 枯木宿へ麓芸者の御慶かな  (鹿火屋大正十二年二月号)

 石鼎と蕪子が、膝を寄せて歓談したような記事は見つからない。強いて言えば、幾たびも「草汁」譲渡を乞うために蕪子のもとに通った時期が、いちばん石鼎と蕪子の向き合う時間だったかもしれない。
(岩淵喜代子)

『二冊の鹿火屋 ― 原石鼎の憧憬』 2014年10月  邑書林

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ーー筆をとるきっかけを作ってくれたのは、石鼎のためにだけ発行された「鹿火屋」の存在である。『二冊の鹿火屋』とはたった二冊しかない「鹿火屋」と捉えてもってもいいし、二種類の「鹿火屋」と捉えてもらってもいい。いづれにしても石鼎ただ一人のために発刊した「鹿火屋」を指す。

 本来は二〇〇九年刊の自著『頂上の石鼎』に書き込むべき事項であったが、種々の事情で概略しか書くことができなかった。二冊の鹿火屋について誰も書いてはいないが、小島信夫著『原石鼎』では、「石鼎用鹿火屋」の中にしかない「手簡自叙傳」に触れている。そうして、まつもとかずや氏は「石鼎のためにだけ作られた鹿火屋があったと聞いている」という一文を書きのこしている。

 どうも遠巻きに言いたいことを少しだけ言っているみたいな感じである。その先達を差し置いて、私が先に書いてもいいのだろうかと躊躇っていた。しかし、ここにきて私も喜寿を迎える。手元に舞い込んできた「石鼎用鹿火屋」を有耶無耶のうちに消滅してしまっていいのだろうかと考えたら、公開しておけば向後の参考になるだろう、という想いに至った。(序より)

秋晴や二階六畳下六畳     原石鼎   大正8年

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 「龍土町の家は、六本木から電車線路に沿って乃木神社の方へ向かって歩くと、右側一聯隊に向きあった三聯隊の正門通りの一つ手前の通りの三つ目を左に折れた、洗濯屋の前の高い崖の上にぽつんと建っていた」という原石鼎の妻コウ子の記述を頼りに、脇道を辿っていくと、まさに左に折れたところに洗濯屋はあった。今もれっきとしたクリーニング店で、赤い看板に「創業明治二十八年」とある。

「洗濯屋の裏あたりから三聯隊の土堤が見透かされた」というそこには全面ガラス張りの国立新美術館が聳え、一聯隊跡は東京ミッドタウンと化している。龍土町という地名もろとも石鼎の家は失せているが、古道のこの一隅の趣は、少しも変わっていないと感じられた。

 ほぼ百年昔、石鼎が息をしたであろう空気が今も漂っていて、鼓動を少しばかり大きくしながら、私はしばらく動くことができなかった。

   秋風に殺すと来る人もがな      石鼎
   己が庵に火かけて見むや秋の風     〃

 思えば石鼎が、放浪の果に故郷を去って、懐中無一文に上京したのは大正四年であった。
「自己の不遇も又彼の高山幽谷、寒雲怒涛と同じように、むしろ横溢する興味をもってこれを迎えつつある」と虚子は評している。           

    妻を迎ふ一句
  われのほかの涙目殖えぬ庵の秋      石鼎

 石鼎は、誰よりもさびしい人であった。生きて在ることのさびしさを自覚する人であった。そんな石鼎にとって、伴侶も又無常そのものとして、抱きとめるほかなかったというのであろうか。
 結婚の翌年、大正八年九月、晴れて麻布龍土町に一軒家を借りたのであった。
 そのひそやかな喜びが「二階六畳下六畳」に充満している。
 二年後、この家を発行所に、主宰誌「鹿火屋」は誕生した。

   冷やかや草庵かけて皆我句      石鼎

〈秋風や眼中のもの皆俳句〉という虚子の先行句にも似た、「皆我句」には、生涯でもっとも充実していた頃の真実がこもっている。

   臥せし穂にふと瞳を見せし稲雀      石鼎

 島田修二の歌に、〈家といふかなしみの舟成ししよりひとは確かに死へと漕ぎゆく〉がある。
 家という舟を漕ぎだしたばかりの、かの龍土町の秋晴の輝きは、三十年を経た秋、稲雀の瞳に紛れなく映し出されている。何と愛おしいまなざしであろうか。稲雀の気迫が石鼎に乗り移った瞬間である。
そして私には、生きていくということの孤独に、一つのぬくもりをいただいたようにも思えるのである。
 石鼎が六十五年の生涯を閉じたのは、この直後である。

(草深昌子=晨)

石鼎の俳句を辿りながら (講演記録)

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「私の好きな俳句」というのが今日のテーマなのですが、好きな俳句はたくさんあります。しかし、それでは取り留めもないので、好きな俳人の一人原石鼎の作品を通して、私の好きな俳句を語ってみたいと思います。本題に入る前に、私の俳句への関わり初めの経緯を申し上げておきたいと思います。大方の方が、句会にはいる切っ掛けは身近な縁からではないでしょうか。私も、なんとなく俳句の講座の広告を見て、聞いてみようかなと思ったのが最初です。

そのときの講師が「鹿火屋」主宰の原裕でしたが、俳句にかかわるまで原裕も「鹿火屋」も、そうしてその「鹿火屋」を立ち上げた原石鼎も全く知りませんでした。そうして、世の中に結社というものが数えきれないほどの数になることも知らないままの入門でした。ですから、原石鼎や原裕の句を、たぶんこうした俳句が立派な俳句なのだと認識しながら、俳句を作り出したのではないかと思います。石鼎と言えば、

  頂上や殊に野菊の吹かれ居り
  淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守
  花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月   

などの句が有名ですね。このあたり俳句らしい格調がある句として受け止めました。この会場には、この地元「浮野」の結社の方が多いと思いますが、落合先生の師系は長谷川かな女ですから、会場にはかな女の作品に親しんでいる方は多いいと思います。

  あるじよりかな女が見たし濃山吹  
 
 この句は石鼎が東京に出てきてまもなく詠んだ句です。俳句は打座即刻の文芸と言われていますが、石鼎はその瞬間的に詠み取ることに秀でていました。わたしも、この山吹の明るさが、健康的なかな女を彷彿とさせて好きな句です。余談ですが、この句に対してかな女の夫である、長谷川零余子は石鼎に抗議をしておりまして、暫く、疎遠になったみたいです。

石鼎が昭和26年に亡くなったときの追悼文で、かな女はーー私の身の上も昔と変わりまして茶の間に籠もっていられなくなりまして、山吹の句に詠まれたようなしおらしさも失われましたーーと語っていますので、詠まれた内容が嫌ではなかったのだと思います。このかな女を詠んだ句は大正4年ですが、私は石鼎が都会に住むようになってから詠んだ句が、吉野時代の句よりも好きなのです。少し上げてみますと、

   日輪をめぐる地球になめくぢり   
   首のべて日を見る雁や蘆の中     
   とんぼうの薄羽ならしゝ虚空かな        

まず大正4年5年ごろの、都会に住み始めてから詠んだ句ですですが、非常に繊細な作者の体温を感じる句です。一句目の句ですが、この世に生き物は、象でも牛でも鷹でもたくさんあるのに、よりによって地球と日輪にあの蛞蝓を等分に並べなくても、と思う方もいるかもしれません。しかし、蛞蝓と宇宙との取り合わせは凄いと思いました。蛞蝓の、その痛々しい姿に石鼎は味方したかったのだと思います。

二句目の「首のべて」という表現がいかにも雁に寄り添っている作者を感じます。俳句を自分の身体を通して詠んでいます。このあたりから石鼎の句は吉野の格調のある句とは違う現代詩の様相を濃くしてきましたが、私は、吉野の句以上に、そうした都会の句が好きです。

   短日の梢微塵にくれにけり       
   春鹿の眉あるごとく人を見し       
   春宵の灰をならして寐たりけり
   下萌や籠鳥吊れば籠の影
   足投げ出せば足我前や春の海

先ほどの「なめくじ」の句の時代をさらい数年経た大正7年ごろの句です。いづれも日常吟ですが、対象物への視点の寄せ方が殊に繊細になりました。やはり都会という土地柄が影響したのでしょうか。ごらんになってわかると思いますが、どの句も極めて自然体で詠まれています。大仰な言語もなく、作者の視点を読み手も辿れる句です。この視点が辿れるという事こそ、鑑賞者の心に印象濃く残る句ではないかと思います。

視点を辿って得た俳句には曖昧さやムードに陥ることがないかららです。一言でいえば、やはり写生が芯になっている句と言えます。一句目の「短日」の句は、当時「ホトトギス」ではあまり評価されなかったようですが、この微塵ということばによって、夕暮れの梢のさきのぼやっとした様を言い留めているのが上手いと思いました。印象を絵画的にしています。

二句目の「春鹿の眉あるごとく人を見し」ですが、眉があるごとく、という擬人化のような措辞によって鹿に表情を加えています。三句目の春宵の句も何気ないですね。それでいて、なんだかしみじみと染み込んできます。灰は当時の火鉢や炬燵の灰でしょう。一日が終わったという感触を作者自身が確認している姿が「灰をならして」にあるわけです。それが、詠み手の日常とも重ねられて、胸に染み込んでくるのだと思います。

4句目、5句目の「下萌え」や「足投げ出せば」の句にしても、言われてみれば、なんだそんなことで俳句は良いのだ、と思うほどさりげない叙述です。ですが、何もない日常をなかなかこうした景に置き換えられないものです。しかも古びない。

   大榾をかへせば裏は一面火       高野素十
   赤い椿白い椿と落ちにけり       河東碧梧桐
   揺らぎ見ゆ百の椿が三百に       高浜虚子
   ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに   森 澄雄
   白に白重ね形代納めけり        落合水尾
   傘立てて穀雨の雫地に膨れ       峰尾北兎

他の作家の作品集から凝視から生れた表現を探してみました。これら、みんな凝視から詠まれたものですね。「大榾をかへせば裏は一面火」、これは囲炉裏あるいは、焚火の火かもしれません。何気なく裏返した榾、それが「一面火」だったわけです。最後の言葉に迫力がありますね。二句目の「赤い椿白い椿と落ちにけり」は、知らない人がいないくらい有名な句ですが、只淡々と言い述べているだけですね。それなのに、読み終わったときに、心の中にしんと留まる句といえます。俳句はやはり、思索しながら作るのではなく、目で発見したものを言葉に置き換える文芸なのだと、しみじみ思い知らされます。

「揺らぎ見ゆ」「ぼうたん」の句にしても見るというところから始まっています。五句目の形代の句にしても、なにも言っていない。白に白を重ねたという物理的な側面で表現しています。次の句も穀雨の雫が傘から流れて地面に膨れ上がった瞬間へ視点が当てられています。先ほど、石鼎の俳句は初期の吉野で得た句よりもその後の方が魅力的だと言いましたが、それは当時から石鼎の言語感覚、というか、俳句の方向が現代的だったのではないかと思います。

   掌に掬へば色なき水や夏の海    石鼎 大正9年
   滝をのぞく背をはなれゐる命かな  石鼎 大正10年
   手をつけて海のつめたき桜かな   岸本尚毅
   飛込の途中たましひ遅れけり    中原道夫

石鼎の二句と現代作家の句を並べてみました。どうでしょうか。こうして対比した時、石鼎の大正俳句が、ホトトギスの中でも、とても新しかったということを感じます。その後も石鼎俳句の進化は続きます。そして、吉野の格調ある句が現れてきますが、それは初期の人々を驚かせた「頂上や殊に野菊に吹かれ居り」の原点に繋がる格調の高さです。

   青天や白き五辨の梨の花      昭和11年
   神棚の燈のふもとなる炬燵かな   昭和13年

こうした石鼎作品の集積が、石鼎の唯一の句集である『花影』となりました。ついでですから、最晩年の句までいきたいと思います。

   朝戸繰りどこも見ず只冬を見し   昭和26年
   夕月に七月の蝶のぼりけり    
   蜘蛛消えて只大空の相模灘    
   大空と大海の辺に冬籠る                                                                                     

一句目の句は、もう最晩年のものです。これは本来の写生論から言えば、真逆の表現なんですね。普通は冬と言うものを何かの具象で言い表すものですが、そうはしていません。こうした句をカルチャー教室などに出して受け入れられたかどうか。要するに冬の具象的な映像はないのに、何故かこの句は映像的なんです。私のもう一人の好きな俳人芝不器男の句にこの句と似ているようで似ていない句なのですが、(どくだみに降る雨のみを近く見る)というのがあります。この句なら、どなたも理解して納得すると思います。とてもわかり易い句ですね。

最後の「大空と大海の辺に冬籠る」などは、辞世の句と言ってもいいような句です。このあたり、即ち晩年の句は、また初期の朗詠にふさわしいような格調が戻っています。しかし、吉野時代の古典的な空気ではありません。石鼎俳句の変化は、時代と言うより環境ではないかと思います。石鼎は、環境の中に埋没しながら一句を成していくようです。晩年は神奈川県二宮に住んでいました。大磯の隣駅ですが、海音が聞こえそうなところに住んでいました。

再び「好きな句」というところに視点を戻しますと、その理由の第一は、私の入会した「鹿火屋」に流れる叙情性というものが、私の持つ文学性と相性が良かったのかもしれません。詩歌は叙情と言い切ってもいいかもしれませんので、その叙情なら水原秋櫻子なども、その冴えたるものかもしれません。しかし、嫌いというわけではありませんが、好きな作家という括りの私のリストには入っておりません。

   啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々     水原秋櫻子
   梨咲くと葛飾の野はとの曇り
   瀧落ちて群青世界とどろけり

秋櫻子と言えば、これらの句がすぐ思い出すかもしれません。私も俳句を始めた当時は、なんと素敵な句だろうと思いました。しかし、秋櫻子の句と言うのは、朗詠のための作品という意味では誠に適した作品群なのです。歌舞伎などに例えれば見得を切っているような句に思えるのです。そんなことで、私の好きな句のリストには入っておりません。朗詠に比重が置かれているからかもしれません。

作家の体温を感じられるというところでも、やはり石鼎の句に惹かれます。要するに、俳句の俳とは、なんでもない日常些事が非日常に入れ替わる瞬間を掴むことではないかと思っています。私自身の句を読んでくださった方は、私の句には、これまで述べたような要素の句はないのではないかと思うかもしれません。実際、さり気ない日常を表現によって詩に昇華させることなんですから、なかなか簡単にはいきません。強いてあげれば

草紅葉足を運べば手が揺れて     岩淵喜代子

というような句をやはり大切にしていきたいと心がけております。自然に身を委ねる生き様が俳句になれば、と願っております。このあたりのことをお伝えするつもりで今日は参りましたが、時間のあるかぎり、もう一人の好きな作品群を紹介したいと思います。それは、先ほど一句紹介しましたが、芝不器男です。明治36(1903)年)から昭和5(1930)年まで生きた作家です。という事はたった27年しかこの世にいなかった作家です。

   向日葵の蕋を見るとき海消えし   芝 不器男(ふきお)
   白藤や揺りやみしかばうすみどり
   永き日のにはとり柵を越えにけり
   人入つて門のこりたる暮春かな
   一片のパセリ掃かるる暖炉かな

これらは、一度はどこかで目にした俳句ではないかと思いますが、非常に魅力的な作家だと思っています。不器男(ふきお)は短い生涯でしたが、その短い年月の中で原石鼎にも傾倒していました。その不器男が石鼎をたった一人の「えらもの」すなわち偉い人である、と明言して、次のような文章を残しています。

雪の富士松の林の上に見ゆ   原石鼎
 かういふ句をよんで平然としてゐる石鼎氏のえらさ、はかり知るべからず。つまりは句はここではないか。語にとらはれ、奇矯をてらひ、主観の表白と称し、此と談じ、彼と説くも、今の俳壇に真のえらものなく愚作ばかりならべて自負す。石鼎氏ひとり鹿火屋によりもくもくと恐ろしき作を示す。僕のひそかに師とあふぐたつたI人のえらものである。

要するに先ほどの(長き日のにわとり柵を越えにけり)を詠んだ作者ならではの言葉ですね。その(永き日のにはとり柵を越えにけり)というのは、は、不器男自身が殊に執着している句です。しかも、石鼎に近づき得た句と思っています。その不器男の文章があります。

いい作と自惚れるのではない。おれはこれがおれの道だと思ふ。愚鈍者の聚合せる俳壇なんといふものにまぜつかへされてたまるものか。この句を落とす選者の不明を顧みる勿れ。おれがおれの信ずる通りにすヽめばいい。おれの信ずる道は正しい道だと信ずる。とにかく時流にまきこまれることは御免かふむる。但し、時流なるものが正しければ、こんなことは言はないが・・・。) (芝不器男「偶感」より)

と、当時から俳句に対する信条というか、信念の確立が見られます。自分の好きな句、と同時にその好きな作家を憧れていた俳人の作品を読んでいくのも、自分の句を見極める助けになると思います。

時間が来ましたようなので、このあたりで終わらせていただきます。

須賀敦子世界展

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神奈川近代文学館の須賀敦子世界展に立ち寄った。想像したよりもたくさんの資料が並んでいて、閉館ぎりぎりだったのが残念だった。殆どが個人蔵、多分須賀敦子の妹さん所蔵なのだろう。展示の中に石鼎の住んで居た本村町の地図があった。それによると、石鼎の家は私が思っていた場所とは数軒ずれているようだ。「ベットの中のベストセラー」の一文のなかにその地図もあるらしいので、探してみようと思う。

ヴァチカン大使館の中で撮った写真があった。1959(昭和34)年のものだ。たぶん、ヴァチカンにある日本大使館の場所は私が訪れたときも同じ場所にあったに違いない。須賀敦子が訪れた時からは50年後くらいかもしれないが、俳人協会の一員として、イタリアの詩人たちと交流をもった大使館だ。かすかな縁だが、なんだか嬉しかった。

こち向き浮く鳥ややにこち向き浮寝鳥     大正6年

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 何とも読みにくい句である。
 だが、もう一度読み直してみると、「本当にそうだなあ~」と、一人微笑んでしまう。

 大山の麓、わが家からの散歩圏には、水鳥の棲んでいる池や川があちこちにあって、句作りに最適だが、今しがた出会った浮寝鳥の姿は、石鼎の一句にばっちりはまってしまって、他に何も言うことがなくなった、お手上げである。
 午後二時過ぎであったが、その日射しはまるで夕日のように、水面に染み入るようにあかあかとしていた。鴨たちは、即かず離れず、少しずつ向きを変えながら水に浮いているのだった。
 浮寝鳥と作者は共に黙りこくってありながら、心の通いが微妙に伝わってくる。
 絵にすれば幾何学的なものに、またモノトーンの映像にもなりそうではあるが、絵にも映像にもならない空気感が読み手の想像力を刺激してくれる。

 「コチムキウクトリヤヤニコチムキ」と、遅々としたもの言い、ついには口ごもってしまいそうな、唇を小さく付き出したまま停滞してしまう感じがそのまま浮寝鳥のそれなのである。
 一字一句に、ぬきさしならぬ石鼎の本当があって、それを何の臆面もなく表現できる、それが浮寝鳥というものの本質に迫ってくるあたり、何とも天真爛漫である。

 石鼎には、

   雪に来て美事な鳥のだまり居る     昭和8年

等、押しも押されもせぬ鳥の句が多々ある中で、「浮寝鳥」の如き、見事ならざる鳥の姿もまたみごとに活写するのが、凄ワザと言おうか。
 鳥は、花のようにじっとしていないので詠い上げるのは難しい。
 鳥の色かたちはもとより、その習性もよく知らずして安易に鳥を詠うのはどうかという飯田龍太の声も聞こえてくるのだが、石鼎はやはりよく鳥を観察していて、一句における鳥のおさめ方が決まっている。

 その代表的なものに、

   鶲来て色つくりたる枯木かな     大正6年

がある。
 一読、殺風景な枯木に鮮やかな色がぱっと灯るのだが、さて鶲とはどんな鳥だったかしら、と後で思う。
 知識のないものにまで、瞬時に感銘を与えてくれるのも石鼎ならではである。

 (草深昌子=晨)

『二冊の鹿火屋ーー原石鼎の憧憬』

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2015年度俳人協会第26回評論賞



2014年10月 邑書林
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